名盤のブルーノート史

創立からモダン前夜まで―――クラシック・ジャズの時代
 1939年1月6日。マンハッタンの貸しスタジオ。ひとりの熱心なジャズ・ファンが始めての録音を試みる。彼の名をアルフレッド・ライオンという。ベルリン育ちのユダヤ人で、戦乱のヨーロッパを捨てて2度目の冬だった。
 前年初めてニューヨークに紹介されたシカゴのブギ・ウギ・ピアノに驚嘆し、抑えるに抑えられない思いでミュージシャンにかけあい、スタジオを予約し、レコード制作の何の予備知識もないままこの日を迎えた。ただしミュージシャンにいい気分で演奏してもらえるよう、果物や飲み物だけはたっぷりと用意したそうだ。
 この日の録音から、ミード・ルクス・ルイス〈メランコリー/ソリチュード〉など2枚のSP盤(両面2曲入りの78回転盤)が生まれる。当初は仲間うちに配る私的盤程度のつもりだったが、出来に満足したアルフレッドは小部数を販売してみることにする。
 こうしてブルーノートはブギ・ウギ・ピアノから始まった―――。
 とはいえ、初作品に選ばれたルイスの2曲を聴くと、アルフレッドを録音に駆り立てたのはブギ・ウギの曲芸的なスタイルではなく、そこに流れる深いブルース感覚であったことがよくわかる。レーベル名も、当初はブルース・ノートとなる予定であったという。
 ルイスは次の企画、ポート・オブ・ハーレム・ジャズメンのピアニストも務め、このセッションから副産物的に生まれた39年録音・発売のシドニー・ぺシェ(ニュー・オリンズクラリネットの名手)の〈サマータイム〉が翌春になって小ヒットを記録する。70年の星霜を重ねて現在に至る「最強・最長の」ジャズ・レーベルの、最初のささやかな成功であった。
 ポート・オブ・ハーレム・ジャズメンは録音用のアーバン・ブルース・バンドで、メンバーはリーダー格のフランキー・ニュートンとアルフレッドが選んだ。この後もBNは一貫して、活動中のレギュラー・グループより、デビュー前の新人や、選抜メンバーの録音に熱心である。
 エドモンド・ホールのセレステ・カルテット(ルイスがセレステ[鍵盤付き鉄琴]を弾く)という奇想の室内楽ジャズからはBN第2のヒット〈プロファウンドリー・ブルー〉(41年録音)が生まれ、主要メンバーを固定しながらリーダーが変わる一連の「BNジャズメン」のシリーズからは、ジェームス・P・ジョンソン〈ヴィクトリー・ストライド〉(44年)などの名演が生まれた。
 BNがいかに「モダン・ジャズの王国」であるにせよ、こうしたクラシック・ジャズ(ニュー・オリンズディキシーランド〜スイングといったモダン以前のジャズ)の名演や名セッションはいまや無名に過ぎる。最大の理由は、やはりLP盤の不在だろう。50年代にLPが普及してもモダンの仕事が忙しくなりすぎたのか、アルフレッドはこの時代から12インチLPを残さなかった。ぺシェの『ジャズ・クラシックスVol.1&2』(39〜51年)などがわずかな例外である。
 モダン前夜のいわゆる中間派の時代も同様だ。BNは「スイングテット」(本来ビッグ・バンドであるスイングの小コンポ演奏=中間派)の新造語をスローガンにしてアイク・ケベック、ジョン・ハーディらのSP録音を重ねながら、それらをLPにまとめることはなかった。〈ブルー・ハーレム〉(44年)他多くの快演を生んだケベックなど、当時のセッションがたった1枚でもアルバムに編まれていたら、その後の評価はどう変わっていたのだろう。

ビ・バップからハード・バップへ―――1500番台の時代
 ケベックはBNの制作ブレインでもあった。その紹介で異才セロニアス・モンクが舞台に登場し、『ジーニアス・オブ・モダン・ミュージックVol.1&2』(47〜52年)に収められる一連のデビュー・セッションとともに、BNのモダン・ジャズ時代が一気に花を開く。
 当時のモンクにBNが付けたキャッチ・コピーは「ビ・バップの高僧」という。従来のジャズと一線を画する、細分化あるいは倍加されたリズムを持つ新しいジャズのニックネームをビ・バップといい、これ以降がモダン・ジャズの時代である。
 続く『ジ・アメイジングバド・パウエルVol.1&2』(49〜53年)、『マイルス・デイヴィス・オールスターズVol.1&2』(52〜54年)などは、ビ・バップからハード・バップへの発展期の傑作だ。
クラシック(西欧)音楽へのコンプレックスを抱えていたビ・バップは次第に理知化、複雑化の袋小路に迷い込みながら、他方でかつてブルースやスピリチュアルズ(黒人霊歌)がそうであったような情動の音楽へと自らを解放する。より率直な自己表現を求めて単純化、大衆化されたビ・バップ、それがハード・バップだ。
「ハード・バップ誕生の夜」とされるライブ録音、アート・ブレイキー『バードランドの夜Vol.1&2』(54年)は、解放されたモダン・ジャズが新たに手にした広大な世界へとはばたかんばかりの歓喜に溢れている。次代をそのままドキュメントしたかの作品だが、ブレイキー、ホレス・シルヴァーに、デビュー間もないクリフォード・ブラウンの加わるこのクインテット(5人編成バンド)はBNによって周到に準備されたもので、最初のナイト・クラブ録音という実験でさえあった。
 これらモダン初期の傑作アルバムは、いずれも55年にスタートした1500番台(BN最初の12インチLPモダン・ジャズ・シリーズ)のためにアルフレッド自身がSPや10インチLPの旧録音から再編集したものだ。
『バードランド〜』も最初は3枚の10インチLPとして発売されている。
 1500番台最初のオリジナル録音は『カフェ・ボヘミアジャズ・メッセンジャーズVol.1&2』(55年)だ。
『バードランド〜』の音楽的成功の結果生まれたレギュラー・クインテットの、やはりナイト・クラブでのライブ録音によるデビュー盤である。
 以後、ザ・ジャズ・メッセンジャーズの二人のリーダー、ブレイキー、ホレス・シルヴァーとその仲間たちが中核となって、BNを舞台にハード・バップ・シーンは展開し、57〜58年には、以下のような黄金時代の作品が並ぶ。
ハンク・モブレークインテット』、『リー・モーガンVol.3』、『ソニー・ロリンズVol.1,2』、ジョン・コルトレーン『ブルー・トレイン』、ソニー・ロリンズヴィレッジ・ヴァンガードの夜』(以上57年)、ソニー・クラーク『クール・ストラッティン』、リー・モーガン『キャンディ』、キャノンボール・アダレイ『サムシン・エルス』・・・・・。
 1500番台を神話化し、BNをモダン・ジャズの紛れもないトップ・レーベルに押し上げた、目の眩むような傑作群である。

ファンキーとソウル・ジャズ―――4000番台の時代(1)
 4000番台のファンファーレは〈モーニン〉である。1958年後半、1500番台は1600番(ファンキーなピアノ・トリオ、ザ・スリー・サウンズのデビュー盤)を最後に4000番台へと移行し、その初期に、JMを解散したブレイキーとシルヴァーの、それぞれのグループによる「ファンキーの聖典」ともいうべき名盤が集中する。
 アート・ブレイキー&JMの『モーニン』(58年)、『ビッグ・ビート』『チュニジアの夜』(60年)、そしてホレス・シルヴァークインテットの『フィンガー・ポッピン』、『ブローイン・ザ・ブルース・アウェイ』(59年)、『ホレス・スコープ』(60年)。
 ハード・バップとゴスペルの出会いから生まれたという「ファンキー」のサウンドは、モダン・ジャズにかつてない大衆化をもたらし、多くのヒット曲も生まれた。
 上記のアルバムからだけでもJMの〈モーニン〉〈ブルース・マーチ〉〈ダット・デア〉、シルヴァー・クインテットの〈フィンガー・ポッピン〉〈シスター・セイディ〉など。中でも58年末録音の〈モーニン〉が最初で最大のヒットであることは疑いを入れない。   
 メッセンジャーズの名前の通り、JMが〈モーニン〉とともに世界を楽旅してファンキーを布教し、いわばNYのローカル音楽から始まったハード・バップは、わずか数年で世界音楽に昇格する。シングル・ヒットの力が強いのは、ジャズもポップスやロックも同じことだ。
 一方でこの時期のBNには、ファンキーの異母妹ともいうべき「ソウル・ジャズ」が顔を出し始める。56年、1500番台初期のBNからデビューした史上最初のモダン・ジャズ・オルガン奏者、ジミー・スミスは、ホーンのように短い音符を連発する当初のハード・バップ・スタイルから次第にオルガン本来のアーシーな持ち味を生かした「ソウルフルな」スタイルに転じ、『ミッドナイト・スペシャル』(60年)などのヒット作を生んだ。共演のギタリスト、ケニー・バレルには傑作『ミッドナイト・ブルー』(63年)がある。
 前出『バードランドの夜』にも参加した最初期のハード・バッパー、ルー・ドナルドソンも、ラテン・リズムを取り入れた人気盤『ブルース・ウォーク』(58年)などを経て、初めてオルガン・トリオをバックにした『ヒア・ティス』(61年)で本格的ソウル・ジャズ宣言を果たす。このアルバムでデビューするギターのグラント・グリーンは、スピリチュアルズをテーマにした代表作『フィーリン・ザ・スピリット』(62年)等、BNに多数の作品を残した。ルーは67年、ダンサブルな〈アリゲーターブーガルー〉(同名アルバムに収録)でポップス級のシングル・ヒットを飛ばしている。

ハード・バップから新主流派、そしてフリー・ジャズへ―――4000番台の時代(2)
 4000番台の最初の100番はハード・バップの円熟期である。前項のファンキーは、いわばその中の突出した傾向であり流行だ。
 この時期のハード・バップ本流の傑作は、ジャッキー・マクリーンのスタンダード集『スイング・スワング・スインギン』(59年)、フレディ・ハバードのデビュー作『オープン・セサミ』(60年)、ハンク・モブレーの三部作『ソウル・ステーション』『ロール・コール』(60年)、『ワークアウト』(61年)、ホーンを増強した三管ジャズ・メッセンジャーズ初の『モザイク』(61年)などキリがない。1500番台の作品が一種求道的あるのに対し、これらの作品は円熟の分だけ快楽度が増しているのが魅力であろう。
 そして4100番台、ハード・バップの新しい時代がやって来る。ウェイン・ショーターハービー・ハンコックら、当時現れた若い才能たちによるモダン・ジャズを、米『ダウンビート』誌は「モダン・メインストリーム」と呼んだ。いわゆる「新主流派」である。
 ひとつに新主流派とは、新しい時代の新しい感覚、技術、理論による新型のハード・バップだ。ウェイン『ナイト・ドリーマー』『ジュジュ』(64年)、ハービー『テイキン・オフ』(62年)、『エイピリアン・アイルズ』(64年)等を経て、二人の旗手はこの時代のピークというべき傑作『スピーク・ノー・イーグル』(64年)と『処女航海』(65年)を、4100番台末に揃って残している。〈処女航海〉を詩的なヴァイヴでカバーしたボビー・ハッチャーソンの『ハプニングス』(66年)や、マッコイ・タイナーのリズム・チェンジの探究『リアル・マッコイ』(67年)などがこれに続く。
 ちなみに、上の『テイキン・オフ』中の〈ウォーターメロン・マン〉や、リー・モーガンの『ザ・サイドワインダー』、ホレス・シルヴァー『ソング・フォー・マイ・ファーザー』(ともに63年)などに始まるエイト・ビート〜ロック・ビートを積極的に取り入れた「ジャズ・ロック」作品が、この時期ファンキーの大衆路線を引き継いでおり、前出ルーの『アリゲーターブーガルー』も延長線上にある。
 さらに新主流派には、いわばハード・バップのフロンティアをめざした一群のアーティストや作品が現れる。『レット・フリーダム・リング』(62年)以降絶えざる進化を続けたジャッキー・マクリーンの『ワン・ステップ・ビヨンド』(63年)、「モンク以来の異才」とアルフレッドの認めるアンドリュー・ヒル『ブラック・ファイア』『ポイント・オブ・ディパーチュア』、そしてエリック・ドルフィー最後の傑作『アウト・トゥ・ランチ』(以上64年)、トニー・ウィリアムスの挑戦的な『スプリング』(65年)など。
 ここに至れば西欧音楽の調性や拍子の「束縛」を嫌う「フリー・ジャズ」はもう目と鼻の先である。65年12月ストックホルムのライブ録音『ゴールデン・サークルのオーネット・コールマンVol.1&2』と、ドン・チェリー同月のNY録音『コンプリート・コミュニオン』で、フリー・ジャズの二人のパイオニアが、同時に大西洋の両側からBNデビューする。さらに翌年には、孤高の革命児セシル・テイラーまでもが、5年ぶりのスタジオ録音『ユニット・ストラクチャーズ』で戦列に加わる。BNのフリー・ジャズの迫力は、極北を行く即興演奏の最良の記録であろうとすることをさえ超えて、繰り返し聴かれるべきレコード作品としての「完成」をなおも痛切にめざしていることだ。
 オーネットのヨーロッパでの復活を伝えた『ゴールデン・サークル〜』は各国で最優秀ジャズ・アルバムの栄誉に浴し(日本でも『スイング・ジャーナル』誌の第1回ジャズ・ディスク大賞金賞を受賞)、これを花道とするかのように、67年、長年の無理で健康をこわしていたアルフレッドは引退を決める。最初期からBNの女房役を務めてきたベルリン以来の親友フランシス(フランク)・ウルフが残ってあとを継ぐ。
 フランクは写真家としても、デザイナーのリード。マイルスと組んでBNの数々の名ジャケットを手がけて来た。これに録音エンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダー(RVG)を加えて、全盛期BN制作陣の役者が揃う。普通にBNといえば、総師アルフレッドが彼らとともに、音楽、サウンド、ジャケットというレコード作りの全方位に万全を期した50年代半ばから60年代後半の期間を、それと知らなくても誰もがまずイメージするのではないか。
 71年、フランクは在職のまま世を去る。彼の時代の大傑作にハービー・ハンコック『スピーク・ライク・ア・チャイルド』(68年)。さらにハービー『ザ・プリズナー』(69年)、ウェイン・ショーター『スーパー・ノヴァ』(69年)、チック・コリア『ソング・オブ・シンギング』(70年)など、ジャズの大きな曲がり角を告げる冒険的な諸作がある。

フュージョン、発掘、ポスト・モダン、現在―――BNLAと新生ブルーノート
 72年、4400番台は半ばでBNLAシリーズに移行する。66年以来その傘下に入った親会社リバティの新しい整理番号に組み込まれたもので、この時代のBNは実際ロスにオフィスを移していたが、LAのBNということではない。 
 同シリーズの「ブルーノート・ヒッツ・ア・ニューノート」のコピーの通り、ドナルド・バード『ブラック・バード』(72年)の大ヒットがフュージョン・ブームの嚆矢となる。マリーナ・ショウ『フー・イズ・ジス・ピッチ・エニウェイ?』(74年)、バード『プレイシズ・アンド・スペイシズ』(75年)やボビー・ハンフリー、アール・クルーらの諸作が続くが、フュージョンが一段落するにともない、70年代末にBNは新録音を休止する。
 70年代半ばからBNが送り出したもう一方の「新作」に、マイケル・カスクーナの発掘(マスター・テープ倉庫の調査)の成果による、アルフレッド・ライオンの時代の未発表録音がある。前出ロリンズ57年のライブ盤の全貌を明らかにする二枚組『モア・フロム・ザ・ヴァンガード』や、リー・モーガングラント・グリーンらの未発表セッション、そしてさまざまな別テイク。眠りを解かれ、BNLA(これに続くLT、さらに当時契約のあった日本キングのGXFなどの)シリーズを通じて、次々と世に送られる「お蔵入り」作品の素晴らしさは、アルフレッドがかつて録音とその作品化に設定していたハイレベルを改めて証明するものであった。
 85年、ブルース・ランドヴァルをリーダーに復活した新生BN(キャピトル〜EMI傘下の現BN)はアルフレッドの直系を自任し、ジョー・ヘンダーソントニー・ウィリアムスミシェル・ペトルチアーニ、ジョー・ロヴァーノ、ウィントン・マルサリスらのモダン・ジャズ・ルネッサンス的な録音を重ねている。
 ダイアン・リーヴスカサンドラ・ウィルソンらのヴォーカルにも注力し、2001年にはグラミー賞主要四部門を含む八冠を受賞、世界で3000万枚を突破した『ノラ・ジョーンズ』(原題“Come Away with Me”)という特大のヒットを生んでもいる。ジャズの枠をこえた作品だが、BNを愛聴し、デビューの舞台にBNを選んだのは他ならぬノラ自身だ。
 最後に、80年代ロンドン発の「BNで踊る」クラブ・ムーヴメントに触れておこう。
それはジャズ界のポスト・モダンの始まりといってもいい。
 スイングの時代から一転して、ビ・バップ以降、モダン・ジャズは踊らない(踊れない)リスニング・ミュージックの芸術性を一方で標榜してきた。それをあえてダンス・フロアに流したロンドンのクラブやディスコの若いDJたちの気分は、ジャズの芸術スノビズムへの反発であると同時に、新発見した過去の音楽財産、音楽文化への強烈なラヴ・コールでもあった。そしてこの気分は世界のクラブ・シーンに普及する。
 ケニー・ドーハムの〈アフロディジア〉がムーヴメントのテーマ曲となった。1500番台の『アフロ・キューバン』(55年)中のラテン・ジャズ曲で、従来のファンからはさして注目も尊重もされたことはない。コンガやボンゴといった「お気軽なラテン・リズム」が参加していたことから、聴かず嫌いでこうした作品が軽視されていた時代が長かったのである。オルガンなども同様だ。
 やはりクラブが発掘した名曲〈デム・タンブリンズ〉を含むドン・ウィルカーソン『ブリーチ・ブラザー』(62年)を筆頭に、ホレス・パーラン+コンガの『ヘディン・サウス』(60年)、幻のオルガン奏者ベイビー・フェイス・ウィレット『フェイス・トゥ・フェイス』(61年)などの廃盤が世界的に高値を呼んだ。以前には知られていなかった作品ばかりで、これらを血眼になって探していたのも、また以前とは違う若いファンたちだった。
 93年には、ホレス・パーラン・トリオの快作『アス・スリー』(60年)をそのままグループ名にしたロンドンのヒップ・ホップ・ユニットによる〈カンタループ〉が世界的に大ヒットを記録する。〈カンタループ〉はハービーの名曲〈カンタロープ・アイランド〉(前出『エイピリアン・アイルズ』収録)をサンプリングしてループにしたナンバーで、イントロには『バードランドの夜』のライヴの、ステージ上のMCを借用している。
 BNLA期のバードやマリーナ・ショウ、さらには『アライヴ!』(70年)などの後期グラント・グリーンの再評価も始まり、いまや『ブラック&ブルース』(73年)他で売り出した「新進女流フルート奏者」ボビー・ハンフリーが再発見される時代にさえなった。
 もとより名盤とは、レコードの属性ではない。それぞれに時代や文化、感性としかるべき出会いを果たして、レコードは名盤と呼ばれるようになる。新しい作品を生み出していくとともに、BNの過去もまた、これからも新しい出会いを生み続けていくことと思う。

――― 完 ―――