名盤のブルーノート史

創立からモダン前夜まで―――クラシック・ジャズの時代
 1939年1月6日。マンハッタンの貸しスタジオ。ひとりの熱心なジャズ・ファンが始めての録音を試みる。彼の名をアルフレッド・ライオンという。ベルリン育ちのユダヤ人で、戦乱のヨーロッパを捨てて2度目の冬だった。
 前年初めてニューヨークに紹介されたシカゴのブギ・ウギ・ピアノに驚嘆し、抑えるに抑えられない思いでミュージシャンにかけあい、スタジオを予約し、レコード制作の何の予備知識もないままこの日を迎えた。ただしミュージシャンにいい気分で演奏してもらえるよう、果物や飲み物だけはたっぷりと用意したそうだ。
 この日の録音から、ミード・ルクス・ルイス〈メランコリー/ソリチュード〉など2枚のSP盤(両面2曲入りの78回転盤)が生まれる。当初は仲間うちに配る私的盤程度のつもりだったが、出来に満足したアルフレッドは小部数を販売してみることにする。
 こうしてブルーノートはブギ・ウギ・ピアノから始まった―――。
 とはいえ、初作品に選ばれたルイスの2曲を聴くと、アルフレッドを録音に駆り立てたのはブギ・ウギの曲芸的なスタイルではなく、そこに流れる深いブルース感覚であったことがよくわかる。レーベル名も、当初はブルース・ノートとなる予定であったという。
 ルイスは次の企画、ポート・オブ・ハーレム・ジャズメンのピアニストも務め、このセッションから副産物的に生まれた39年録音・発売のシドニー・ぺシェ(ニュー・オリンズクラリネットの名手)の〈サマータイム〉が翌春になって小ヒットを記録する。70年の星霜を重ねて現在に至る「最強・最長の」ジャズ・レーベルの、最初のささやかな成功であった。
 ポート・オブ・ハーレム・ジャズメンは録音用のアーバン・ブルース・バンドで、メンバーはリーダー格のフランキー・ニュートンとアルフレッドが選んだ。この後もBNは一貫して、活動中のレギュラー・グループより、デビュー前の新人や、選抜メンバーの録音に熱心である。
 エドモンド・ホールのセレステ・カルテット(ルイスがセレステ[鍵盤付き鉄琴]を弾く)という奇想の室内楽ジャズからはBN第2のヒット〈プロファウンドリー・ブルー〉(41年録音)が生まれ、主要メンバーを固定しながらリーダーが変わる一連の「BNジャズメン」のシリーズからは、ジェームス・P・ジョンソン〈ヴィクトリー・ストライド〉(44年)などの名演が生まれた。
 BNがいかに「モダン・ジャズの王国」であるにせよ、こうしたクラシック・ジャズ(ニュー・オリンズディキシーランド〜スイングといったモダン以前のジャズ)の名演や名セッションはいまや無名に過ぎる。最大の理由は、やはりLP盤の不在だろう。50年代にLPが普及してもモダンの仕事が忙しくなりすぎたのか、アルフレッドはこの時代から12インチLPを残さなかった。ぺシェの『ジャズ・クラシックスVol.1&2』(39〜51年)などがわずかな例外である。
 モダン前夜のいわゆる中間派の時代も同様だ。BNは「スイングテット」(本来ビッグ・バンドであるスイングの小コンポ演奏=中間派)の新造語をスローガンにしてアイク・ケベック、ジョン・ハーディらのSP録音を重ねながら、それらをLPにまとめることはなかった。〈ブルー・ハーレム〉(44年)他多くの快演を生んだケベックなど、当時のセッションがたった1枚でもアルバムに編まれていたら、その後の評価はどう変わっていたのだろう。

ビ・バップからハード・バップへ―――1500番台の時代
 ケベックはBNの制作ブレインでもあった。その紹介で異才セロニアス・モンクが舞台に登場し、『ジーニアス・オブ・モダン・ミュージックVol.1&2』(47〜52年)に収められる一連のデビュー・セッションとともに、BNのモダン・ジャズ時代が一気に花を開く。
 当時のモンクにBNが付けたキャッチ・コピーは「ビ・バップの高僧」という。従来のジャズと一線を画する、細分化あるいは倍加されたリズムを持つ新しいジャズのニックネームをビ・バップといい、これ以降がモダン・ジャズの時代である。
 続く『ジ・アメイジングバド・パウエルVol.1&2』(49〜53年)、『マイルス・デイヴィス・オールスターズVol.1&2』(52〜54年)などは、ビ・バップからハード・バップへの発展期の傑作だ。
クラシック(西欧)音楽へのコンプレックスを抱えていたビ・バップは次第に理知化、複雑化の袋小路に迷い込みながら、他方でかつてブルースやスピリチュアルズ(黒人霊歌)がそうであったような情動の音楽へと自らを解放する。より率直な自己表現を求めて単純化、大衆化されたビ・バップ、それがハード・バップだ。
「ハード・バップ誕生の夜」とされるライブ録音、アート・ブレイキー『バードランドの夜Vol.1&2』(54年)は、解放されたモダン・ジャズが新たに手にした広大な世界へとはばたかんばかりの歓喜に溢れている。次代をそのままドキュメントしたかの作品だが、ブレイキー、ホレス・シルヴァーに、デビュー間もないクリフォード・ブラウンの加わるこのクインテット(5人編成バンド)はBNによって周到に準備されたもので、最初のナイト・クラブ録音という実験でさえあった。
 これらモダン初期の傑作アルバムは、いずれも55年にスタートした1500番台(BN最初の12インチLPモダン・ジャズ・シリーズ)のためにアルフレッド自身がSPや10インチLPの旧録音から再編集したものだ。
『バードランド〜』も最初は3枚の10インチLPとして発売されている。
 1500番台最初のオリジナル録音は『カフェ・ボヘミアジャズ・メッセンジャーズVol.1&2』(55年)だ。
『バードランド〜』の音楽的成功の結果生まれたレギュラー・クインテットの、やはりナイト・クラブでのライブ録音によるデビュー盤である。
 以後、ザ・ジャズ・メッセンジャーズの二人のリーダー、ブレイキー、ホレス・シルヴァーとその仲間たちが中核となって、BNを舞台にハード・バップ・シーンは展開し、57〜58年には、以下のような黄金時代の作品が並ぶ。
ハンク・モブレークインテット』、『リー・モーガンVol.3』、『ソニー・ロリンズVol.1,2』、ジョン・コルトレーン『ブルー・トレイン』、ソニー・ロリンズヴィレッジ・ヴァンガードの夜』(以上57年)、ソニー・クラーク『クール・ストラッティン』、リー・モーガン『キャンディ』、キャノンボール・アダレイ『サムシン・エルス』・・・・・。
 1500番台を神話化し、BNをモダン・ジャズの紛れもないトップ・レーベルに押し上げた、目の眩むような傑作群である。

ファンキーとソウル・ジャズ―――4000番台の時代(1)
 4000番台のファンファーレは〈モーニン〉である。1958年後半、1500番台は1600番(ファンキーなピアノ・トリオ、ザ・スリー・サウンズのデビュー盤)を最後に4000番台へと移行し、その初期に、JMを解散したブレイキーとシルヴァーの、それぞれのグループによる「ファンキーの聖典」ともいうべき名盤が集中する。
 アート・ブレイキー&JMの『モーニン』(58年)、『ビッグ・ビート』『チュニジアの夜』(60年)、そしてホレス・シルヴァークインテットの『フィンガー・ポッピン』、『ブローイン・ザ・ブルース・アウェイ』(59年)、『ホレス・スコープ』(60年)。
 ハード・バップとゴスペルの出会いから生まれたという「ファンキー」のサウンドは、モダン・ジャズにかつてない大衆化をもたらし、多くのヒット曲も生まれた。
 上記のアルバムからだけでもJMの〈モーニン〉〈ブルース・マーチ〉〈ダット・デア〉、シルヴァー・クインテットの〈フィンガー・ポッピン〉〈シスター・セイディ〉など。中でも58年末録音の〈モーニン〉が最初で最大のヒットであることは疑いを入れない。   
 メッセンジャーズの名前の通り、JMが〈モーニン〉とともに世界を楽旅してファンキーを布教し、いわばNYのローカル音楽から始まったハード・バップは、わずか数年で世界音楽に昇格する。シングル・ヒットの力が強いのは、ジャズもポップスやロックも同じことだ。
 一方でこの時期のBNには、ファンキーの異母妹ともいうべき「ソウル・ジャズ」が顔を出し始める。56年、1500番台初期のBNからデビューした史上最初のモダン・ジャズ・オルガン奏者、ジミー・スミスは、ホーンのように短い音符を連発する当初のハード・バップ・スタイルから次第にオルガン本来のアーシーな持ち味を生かした「ソウルフルな」スタイルに転じ、『ミッドナイト・スペシャル』(60年)などのヒット作を生んだ。共演のギタリスト、ケニー・バレルには傑作『ミッドナイト・ブルー』(63年)がある。
 前出『バードランドの夜』にも参加した最初期のハード・バッパー、ルー・ドナルドソンも、ラテン・リズムを取り入れた人気盤『ブルース・ウォーク』(58年)などを経て、初めてオルガン・トリオをバックにした『ヒア・ティス』(61年)で本格的ソウル・ジャズ宣言を果たす。このアルバムでデビューするギターのグラント・グリーンは、スピリチュアルズをテーマにした代表作『フィーリン・ザ・スピリット』(62年)等、BNに多数の作品を残した。ルーは67年、ダンサブルな〈アリゲーターブーガルー〉(同名アルバムに収録)でポップス級のシングル・ヒットを飛ばしている。

ハード・バップから新主流派、そしてフリー・ジャズへ―――4000番台の時代(2)
 4000番台の最初の100番はハード・バップの円熟期である。前項のファンキーは、いわばその中の突出した傾向であり流行だ。
 この時期のハード・バップ本流の傑作は、ジャッキー・マクリーンのスタンダード集『スイング・スワング・スインギン』(59年)、フレディ・ハバードのデビュー作『オープン・セサミ』(60年)、ハンク・モブレーの三部作『ソウル・ステーション』『ロール・コール』(60年)、『ワークアウト』(61年)、ホーンを増強した三管ジャズ・メッセンジャーズ初の『モザイク』(61年)などキリがない。1500番台の作品が一種求道的あるのに対し、これらの作品は円熟の分だけ快楽度が増しているのが魅力であろう。
 そして4100番台、ハード・バップの新しい時代がやって来る。ウェイン・ショーターハービー・ハンコックら、当時現れた若い才能たちによるモダン・ジャズを、米『ダウンビート』誌は「モダン・メインストリーム」と呼んだ。いわゆる「新主流派」である。
 ひとつに新主流派とは、新しい時代の新しい感覚、技術、理論による新型のハード・バップだ。ウェイン『ナイト・ドリーマー』『ジュジュ』(64年)、ハービー『テイキン・オフ』(62年)、『エイピリアン・アイルズ』(64年)等を経て、二人の旗手はこの時代のピークというべき傑作『スピーク・ノー・イーグル』(64年)と『処女航海』(65年)を、4100番台末に揃って残している。〈処女航海〉を詩的なヴァイヴでカバーしたボビー・ハッチャーソンの『ハプニングス』(66年)や、マッコイ・タイナーのリズム・チェンジの探究『リアル・マッコイ』(67年)などがこれに続く。
 ちなみに、上の『テイキン・オフ』中の〈ウォーターメロン・マン〉や、リー・モーガンの『ザ・サイドワインダー』、ホレス・シルヴァー『ソング・フォー・マイ・ファーザー』(ともに63年)などに始まるエイト・ビート〜ロック・ビートを積極的に取り入れた「ジャズ・ロック」作品が、この時期ファンキーの大衆路線を引き継いでおり、前出ルーの『アリゲーターブーガルー』も延長線上にある。
 さらに新主流派には、いわばハード・バップのフロンティアをめざした一群のアーティストや作品が現れる。『レット・フリーダム・リング』(62年)以降絶えざる進化を続けたジャッキー・マクリーンの『ワン・ステップ・ビヨンド』(63年)、「モンク以来の異才」とアルフレッドの認めるアンドリュー・ヒル『ブラック・ファイア』『ポイント・オブ・ディパーチュア』、そしてエリック・ドルフィー最後の傑作『アウト・トゥ・ランチ』(以上64年)、トニー・ウィリアムスの挑戦的な『スプリング』(65年)など。
 ここに至れば西欧音楽の調性や拍子の「束縛」を嫌う「フリー・ジャズ」はもう目と鼻の先である。65年12月ストックホルムのライブ録音『ゴールデン・サークルのオーネット・コールマンVol.1&2』と、ドン・チェリー同月のNY録音『コンプリート・コミュニオン』で、フリー・ジャズの二人のパイオニアが、同時に大西洋の両側からBNデビューする。さらに翌年には、孤高の革命児セシル・テイラーまでもが、5年ぶりのスタジオ録音『ユニット・ストラクチャーズ』で戦列に加わる。BNのフリー・ジャズの迫力は、極北を行く即興演奏の最良の記録であろうとすることをさえ超えて、繰り返し聴かれるべきレコード作品としての「完成」をなおも痛切にめざしていることだ。
 オーネットのヨーロッパでの復活を伝えた『ゴールデン・サークル〜』は各国で最優秀ジャズ・アルバムの栄誉に浴し(日本でも『スイング・ジャーナル』誌の第1回ジャズ・ディスク大賞金賞を受賞)、これを花道とするかのように、67年、長年の無理で健康をこわしていたアルフレッドは引退を決める。最初期からBNの女房役を務めてきたベルリン以来の親友フランシス(フランク)・ウルフが残ってあとを継ぐ。
 フランクは写真家としても、デザイナーのリード。マイルスと組んでBNの数々の名ジャケットを手がけて来た。これに録音エンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダー(RVG)を加えて、全盛期BN制作陣の役者が揃う。普通にBNといえば、総師アルフレッドが彼らとともに、音楽、サウンド、ジャケットというレコード作りの全方位に万全を期した50年代半ばから60年代後半の期間を、それと知らなくても誰もがまずイメージするのではないか。
 71年、フランクは在職のまま世を去る。彼の時代の大傑作にハービー・ハンコック『スピーク・ライク・ア・チャイルド』(68年)。さらにハービー『ザ・プリズナー』(69年)、ウェイン・ショーター『スーパー・ノヴァ』(69年)、チック・コリア『ソング・オブ・シンギング』(70年)など、ジャズの大きな曲がり角を告げる冒険的な諸作がある。

フュージョン、発掘、ポスト・モダン、現在―――BNLAと新生ブルーノート
 72年、4400番台は半ばでBNLAシリーズに移行する。66年以来その傘下に入った親会社リバティの新しい整理番号に組み込まれたもので、この時代のBNは実際ロスにオフィスを移していたが、LAのBNということではない。 
 同シリーズの「ブルーノート・ヒッツ・ア・ニューノート」のコピーの通り、ドナルド・バード『ブラック・バード』(72年)の大ヒットがフュージョン・ブームの嚆矢となる。マリーナ・ショウ『フー・イズ・ジス・ピッチ・エニウェイ?』(74年)、バード『プレイシズ・アンド・スペイシズ』(75年)やボビー・ハンフリー、アール・クルーらの諸作が続くが、フュージョンが一段落するにともない、70年代末にBNは新録音を休止する。
 70年代半ばからBNが送り出したもう一方の「新作」に、マイケル・カスクーナの発掘(マスター・テープ倉庫の調査)の成果による、アルフレッド・ライオンの時代の未発表録音がある。前出ロリンズ57年のライブ盤の全貌を明らかにする二枚組『モア・フロム・ザ・ヴァンガード』や、リー・モーガングラント・グリーンらの未発表セッション、そしてさまざまな別テイク。眠りを解かれ、BNLA(これに続くLT、さらに当時契約のあった日本キングのGXFなどの)シリーズを通じて、次々と世に送られる「お蔵入り」作品の素晴らしさは、アルフレッドがかつて録音とその作品化に設定していたハイレベルを改めて証明するものであった。
 85年、ブルース・ランドヴァルをリーダーに復活した新生BN(キャピトル〜EMI傘下の現BN)はアルフレッドの直系を自任し、ジョー・ヘンダーソントニー・ウィリアムスミシェル・ペトルチアーニ、ジョー・ロヴァーノ、ウィントン・マルサリスらのモダン・ジャズ・ルネッサンス的な録音を重ねている。
 ダイアン・リーヴスカサンドラ・ウィルソンらのヴォーカルにも注力し、2001年にはグラミー賞主要四部門を含む八冠を受賞、世界で3000万枚を突破した『ノラ・ジョーンズ』(原題“Come Away with Me”)という特大のヒットを生んでもいる。ジャズの枠をこえた作品だが、BNを愛聴し、デビューの舞台にBNを選んだのは他ならぬノラ自身だ。
 最後に、80年代ロンドン発の「BNで踊る」クラブ・ムーヴメントに触れておこう。
それはジャズ界のポスト・モダンの始まりといってもいい。
 スイングの時代から一転して、ビ・バップ以降、モダン・ジャズは踊らない(踊れない)リスニング・ミュージックの芸術性を一方で標榜してきた。それをあえてダンス・フロアに流したロンドンのクラブやディスコの若いDJたちの気分は、ジャズの芸術スノビズムへの反発であると同時に、新発見した過去の音楽財産、音楽文化への強烈なラヴ・コールでもあった。そしてこの気分は世界のクラブ・シーンに普及する。
 ケニー・ドーハムの〈アフロディジア〉がムーヴメントのテーマ曲となった。1500番台の『アフロ・キューバン』(55年)中のラテン・ジャズ曲で、従来のファンからはさして注目も尊重もされたことはない。コンガやボンゴといった「お気軽なラテン・リズム」が参加していたことから、聴かず嫌いでこうした作品が軽視されていた時代が長かったのである。オルガンなども同様だ。
 やはりクラブが発掘した名曲〈デム・タンブリンズ〉を含むドン・ウィルカーソン『ブリーチ・ブラザー』(62年)を筆頭に、ホレス・パーラン+コンガの『ヘディン・サウス』(60年)、幻のオルガン奏者ベイビー・フェイス・ウィレット『フェイス・トゥ・フェイス』(61年)などの廃盤が世界的に高値を呼んだ。以前には知られていなかった作品ばかりで、これらを血眼になって探していたのも、また以前とは違う若いファンたちだった。
 93年には、ホレス・パーラン・トリオの快作『アス・スリー』(60年)をそのままグループ名にしたロンドンのヒップ・ホップ・ユニットによる〈カンタループ〉が世界的に大ヒットを記録する。〈カンタループ〉はハービーの名曲〈カンタロープ・アイランド〉(前出『エイピリアン・アイルズ』収録)をサンプリングしてループにしたナンバーで、イントロには『バードランドの夜』のライヴの、ステージ上のMCを借用している。
 BNLA期のバードやマリーナ・ショウ、さらには『アライヴ!』(70年)などの後期グラント・グリーンの再評価も始まり、いまや『ブラック&ブルース』(73年)他で売り出した「新進女流フルート奏者」ボビー・ハンフリーが再発見される時代にさえなった。
 もとより名盤とは、レコードの属性ではない。それぞれに時代や文化、感性としかるべき出会いを果たして、レコードは名盤と呼ばれるようになる。新しい作品を生み出していくとともに、BNの過去もまた、これからも新しい出会いを生み続けていくことと思う。

――― 完 ―――

“ジャズマスター”が選ぶ、ブルーノートなんでもベスト5

サウンド・ベスト5
①『アス・スリー』ホレス・パーラン(4037)
②『ヴィレッジ・ヴァンガードの夜』ソニー・ロリンズ(1581)
③『レディ・フォー・フレディ』フレディ・ハバード(4085)
④『トーキン・アバウト』グラント・グリーン(4183)
⑤『ブハイナズ・デライト』アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ(4104)

 音がいいブルーノート・・・・・真っ先に無条件で思い浮かぶのが『アス・スリー』だ。とにかくベースのはじけ方が凄まじい。口火を切るタイトル曲は、もはや恐怖に近い切迫感がある。演奏された生音そのものには、ここまでドロドロとした情念はこもってないはず。それを盤にこめたのが、エンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダー(RVG)。おそるべしとしか言いようがない。
 次の『ヴァンガードの夜』は、完全にロリンズが主役の録音。テナーのカタマリが見事にスピーカーの中央へ現れる。形で言うと、大玉転がしの玉だ。“ヴァンガード”の最前列中央に座った気にさせる。バックの二人はというと、わりと奥にいる。そのメリハリがいい。これが、ライヴの臨場感を倍増させている。
 『レディ・フォー・フレディ』は、全楽器の音が、高水準でバランスよく収録されているところがイチオシ。ほとばしるエネルギー感に加えて、切れ味が鋭い。音のエッジがはっきりしている。フレディもウェイン・ショーターもマイクに楽器を突っ込んでいるんじゃないかと思わせる。やたら飛び出しがいいのだ。
 ギターとオルガンのビッグ・トーンが楽しめるのが『トーキン・アバウト』。グラント・グリーンラリー・ヤングエルヴィン・ジョーンズは1曲目から汗びっしょりだ。こっちもかっかと熱くなってくる。激しい絡み合いを余すところなくとらえた名録音だろう。
 最後はドラム編。『ブハイナズ・デライト』。ブレイキーのハイハットは、決して生っぽくない。もっとエネルギッシュでジャリジャリしている。まるで鉄板で熱く煎った砂をシンバルにまぶしたよう。最後にもう一度言おう。RVG、誠におそるべし。

★ ジャケット・デザイン・ベスト5
①『スプリング』トニー・ウィリアムス(4216)
②『ユニティ』ラリー・ヤング(4221)
③『ゴールデン・サークルのオーネット・コールマンVol.1&2』フレディ・ハバード(4224,4225)
④『ザ・コングリゲーション』ジョニー・グリフィン(1580)
⑤『クレイジー・ベイビー』ジミー・スミス(4030)

 BN黄金時代のジャケットのほとんどを手がけたのは、天才デザイナー、リード・マイルズ。彼は、オーナーのアルフレッド・ライオンの趣味指向をよ〜く踏まえた上で、シンプルな文字、大胆な写真のトリミング、幾何学的なレイアウトといったテクニックを駆使して、一目でそれとわかるBNのジャケットのスタイルを作り上げた。 
 その究極が①だ。鮮烈なオレンジと白の二色で画面を分割して、タイトルとリーダー名、レーベルのマークのみを配するという度胸のよさ。しかし、オレンジと白のバランス、タイトルをオレンジに、リーダー名を茶にするといった細かい芸も見逃せない。
 文字や数字を主役にしたジャケットも多い。その代表作が②だ。黒々としたゴチックのデカ文字は強烈に印象に残る。そして憎いのは、Uの字の中に配されるオレンジのタマ四個。もしかして、カルテット編成のミュージシャンの数を表すのか。
 R・マイルスは、ライオンの盟友フランシス・ウルフが撮った写真を用いても、名ジャケットをたくさん制作した。③は、雪原に寄り添って立つ三人の写真だけでも絵になるところだが、それにBNスタイルの文字をレイアウトすることで完璧な作品となった。
 アンディ・ウォーホルのイラストを使ったものではK・バレルの横たわる女性が有名だが、より存在感があるのが④。力強い描線と鮮やかなシャツの模様は、J・グリフィンのプレイそのものだ。当時のウォーホルは駆け出しのイラストレーターだったというが、すでに非凡なセンスと画才を見せている。それにいち早く着目したBNも偉い!
 「車」と「美女」は、BNのジャケ写の重要なアイテムだが、⑤はその典型的な一枚。車と美女というのは、とくに黒人男性の憧れの的であるようで、ラップ系のビデオクリップなど見ると、現在もなおこの二つが成功のシンボルであることがうかがえる。

★ ライヴ・アルバム・ベスト5
①『ライヴ・アット・ザ・ライトハウスエルヴィン・ジョーンズ(BNLA)
②『ヴィレッジ・ヴァンガードの夜』ソニー・ロリンズ(1581)
③『バードランドの夜Vol.1』アート・ブレイキー(1521)
④『ドゥーイン・ザ・シング』ホレス・シルヴァー(4076)
⑤『カフェ・ボヘミアケニー・ドーハム』(1524)

 ブルーノートのライヴ・アルバムには、格別の思い入れがある。80年代の始め頃、これらのアルバムの演奏を耳にして、まだ行ったことのなかったニューヨークの“ヴィレッジ・ヴァンガード”や“ヴィレッジ・ゲイト”“バードランド”などの名門クラブに思いを馳せたものだ。実際、これらのクラブの存在もロリンズやブレイキー、シルヴァーらがのこした名演、名盤によって世界中のファンに知られるようになったわけで、ジャズ・クラブの名が大きくクレジットされているLPレコードは、店にとって世界に情報を発信できる、最大の宣伝媒体ともなったわけである。しかも熱心なジャズ・ファンがお金を払ってそれを買うのだから、これは究極のターゲット・メディアではないか。もっとも当時は、そんなことはこれっぽっちも考えず、演奏に熱中していたのだけれど・・・・・。
 どのアルバムもミュージシャンのベスト・プレイはもとより、客席のざわめきや喚声を含めて、クラブそのものの雰囲気がよく捉えられており、まるでクラブの客席に座っているかのような気分にさせてくれるのが嬉しい。
 ところでブルーノートのアルバムは、CDよりも以前のアナログ盤のほうが音がリアルで良かったというのが僕の印象。その不満も、近年リリースされたRVGコレクションでは一掃されている。なんと録音エンジニアだったルディ・ヴァン・ゲルダー(RVG)自身が、当時を思い出しながら新たにCD用にデジタル・リマスタリングしているのだから、これに優るものはない。上記のアルバムもRVGで耳にするのが、真の醍醐味である。

★ 衝撃のデビュー・ベスト5
①『インディード!』リー・モーガン(1538)
②『ア・ニュー・サウンド・ア・ニュー・スター』ジミー・スミス(1512)
③『ジーニアス・オブ・モダン・ミュージックVol.1&2』セロニアス・モンク(1510,1511)
④『メモリアル・アルバム』クリフォード・ブラウン(1526)
⑤『テイキン・オフ』ハービー・ハンコック(4109)

 ブルーノートはのちのジャズ・シーンを背負って立つ若手に多くのレコーディング・チャンスを与えている。それはひとえに優れた素質を見抜くことができたアルフレッド・ライオンの慧眼によるものだ。僕が選んだ五枚は、ハービー・ハンコックの作品を除くといずれも1500番台である。これはモダン・ジャズがこの時代にもっとも勢いがあったことも意味している。勢いがあったからこそ有能な新人が続々と登場し、ブルーノートが彼らに発表の場を提供したのである。
 中でも18歳のリー・モーガンが吹き込んだデビュー作は圧巻だ。完成されたスタイルと完璧なテクニックがこの作品で早くも認められることに驚かされた。一方、未完成ながらオルガン・ジャズの原型を提示したジミー・スミスの創造的なプレイもいまだ色褪せていない。ライオンが彼のライヴを聴き、その場でレコーディングを決めた姿が目に浮かぶようだ。モーガンにしてもスミスにしても、それ以前に一度もレコーディングをしていない。自分が信じたものを録音する。このポリシーがここでも貫かれていた。
 セロニアス・モンククリフォード・ブラウンの作品は12インチLPが登場する以前のものをまとめたものなので、「初リーダー録音を含む作品」ということになる。モンクの作品は、この時期に主要なオリジナルのほとんどが作曲されていたことを伝えている点でも興味深い。そしてブラウンの演奏は、モーガン同様に圧倒的なプレイが同時代の、そして後続するトランペッターに大きな影響を与えた。62年録音のハンコックのデビュー作は、ジャズ・ロックの〈ウォーターメロン・マン〉を収録しているのが大きい。オーバーにいうなら、この曲がのちのフュージョン・ブームにつながったといっていい。

★ 発掘版ベスト5
①『ザ・プロクラスティネイター』リー・モーガン(BNLA)
②『ソリッド』グラント・グリーン(LT)
③『オブリーク』ボビー・ハッチャーソン(GXF)
④『エトセトラ』ウェイン・ショーター(LT)
⑤『アナザー・ワークアウト』ハンク・モブレー(新BN・4431)

 リー・モーガンは60年代の多産な売れっ子だが、『ザ・サイドワインダー』の予想外の大ヒット後、アルフレッド・ライオンは二匹目のドジョウを狙うことになった。結果として彼のベストのセッションのいくつかが、シングル・ヒットするようなリード曲がないという理由でお蔵入りになった。そうした未発表セッションの『トム・キャット』も『インフィニティ』も僕は大好きだが、何より『ザ・プロクラスティネイター』こそ最強のものだ。モーガンの、そしてウェイン・ショーターの素晴らしい作曲は、奥行きと広がりを感じさせる。ボビー・ハッチャーソン、ハービー・ハンコックロン・カーター、そしてビリー・ヒギンズとの67年のセッションからの曲のことだ。それらの曲想やウェイン、ハービー、ロンの参加が、当時の偉大なるマイルス・クインテット的なものをリーの音楽に持ち込んでいる。
 グラント・グリーンも多作な売れっ子だ。発売されたアルバムはスタイルも楽器編成も多岐多様だが、それでもなお、ソニー・クラークマッコイ・タイナーとの未発表作品を彼の最良の録音とすべきと思う。それらのほとんどはカルテット編成だが、中でも僕は『ソリッド』が好きだ。ジョー・ヘンダーソン、ジェームス・スポールディング、タイナー、ボブ・クランショウ、そしてエルヴィン・ジョーンズとの、この気の遠くなるほど力強い64年のセッションはジョージ・ラッセルの古典〈エズ・セティック〉、ソニー・ロリンズの〈ソリテッド〉からジョー・ヘンダーソンの〈ザ・キッカー〉まで幅広いナンバーを演奏しており、最後のものはホレス・シルヴァー版を凌いでいる。
 60年代後半のボビーには少数の未発表作品しかないが、どれもが立派な出来だ。とりわけ67年録音の『オブリーク』は障害の最高作のひとつだ。そのスペシャルな音楽はハービー・ハンコック、ジョー・チェンバースと一体となって光輝き、無名のアルバート・スティンソンのベースにも驚くべきものがある。
 ブルーノートウェイン・ショーターは二つの未発表セッションを残したのみのようだが、いずれも発売済みのどの作品にも負けていない。ハービー・ハンコックセシル・マクビー、ジョー・チェンバースという輝けるリズム・セクションを従えた『エトセトラ』は、孤峰のように際立った作品だ。フランシス・デイヴィスが『ステレオ・レヴュー』誌に書いたように、「ウェイン・ショーターで一枚身銭を切るなら『エトセトラ』だ。作曲家にして即興演奏家である彼の天才がいちばんよくわかる」。
 ハンク・モブレーはひと財産といっていいほどの未発表作品を残している。中から一作といえばハンクが素晴らしいプレイを聴かせる『アナザー・ワークアウト』をあげるべきだろう。『ソウル・ステーション』『ロール・コール』『ワークアウト』という三大傑作を生んだ時期(1960〜61年)の録音で、どれもウィントン・ケリーポール・チェンバースが共演しているが、本作のドラムは(他のブレイキーでなく、『ワークアウト』と同じ)フィリー・ジョー・ジョーンズだ。

★ クラブ系ベスト5
①『バード・イン・フライト』ドナルド・バード(4048)
②『ザ・ゴールデン・エイト』ケニー・クラーク(4092)
③『モザイク』アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ(4090)
④『ジュジュ』ウェイン・ショーター(4182)
⑤『ソウル・ステーション』ハンク・モブレー(4031)

 かつての「ダンスフロアでのブルーノート」という観点で言えば、パーカッシヴでアーシーで多彩なリズムを持ったケニー・ドーハム『アフロ・キューバン』(1535)やサブー『パロ・コンゴ』(1561)、ホレス・パーラン『へディン・サウス』(4062)などがあった。これらはロンドン・ジャズ・クラシックスとも呼ばれる、言わば“ジャズで踊る”ムーヴメントの聖典というべきもので、その流れは現在までずーっと息づいており、NU JAZZに括られるダンスミュージックはこれらの影響下にある。
 その文脈と同時にアメリカではヒップホップのネタ、つまりサンプリング素材として使用され、「レア・グルーヴ」という新しい価値を獲得し浮上したのがジャズ・ファンク作品の多い4000番台後期作品及びBNLAシリーズだ。アルフォンス・ムザーン『ファンキー・スネイクフット』、ルーベン・ウィルソン『セット・アス・フリー』(4377)やホレス・シルヴァーの通称“人心連合三部作”もこの範疇で構わないかと思う。ここで代表されるのはドナルド・バードがマイゼル兄弟、いわゆるスカイ・ハイ・プロダクションと作り上げた『ブラック・バード』であり『プレイシズ・アンド・スペイシズ』だ。かつてクリフォード・ブラウンの後継者と目されていたバードがブラックイズム回帰にどのようにして導かれたのは不明だが、結果的にBNでの全活動は、現在のシリアスなジャズ・シーンとはまた別の「広い解釈を持ったジャジーな音楽」という点で現在のダンス・ミュージックに多大な影響を及ぼしたことは明らかになった。
 僕が提唱しているのは黄金期のジャズを焼き直し、新しい価値を持って更新する作業の「夜ジャズ」だが、上記にリストアップした曲はそのフロアでの主なプレイリストで、ここでもバップ期のバードが登場する。

★ コンピ的名曲ベスト5
①〈クレオパトラの夢〉バド・パウエル
②〈枯葉〉キャノンボール・アダレイ(&マイルス・ディヴィス)
③〈ディア・オールド・ストックホルム〉マイルス・ディヴィス
③〈クリフォードの思い出〉リー・モーガン
⑤〈モーニン〉アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ
⑤〈ラウンド・ミッドナイト〉セロニアス・モンク

 ブルーノートの楽曲を使用している主なコンピレーション盤189タイトル(計238枚)の合計858曲の中から、最も多く使われた曲のランキングを作ってみると、コンピに使いやすい曲の条件は、以下の三つだと思う。①メロディがいい(有名曲だと◎)、②演奏者が有名、③曲の長さが丁度良い。第一位〈クレオパトラの夢〉はこの条件にピッタリ。〈枯葉〉〈モーニン〉は10分前後とやや長いが、人気曲なので上位にランクインした。アーティスト別では、マイルスが一番多い。彼の美しいミュート・プレイは、どんなコンピをも上品に格上げする魔法がある。僕も選曲に困ったら、よくマイルスに助けてもらう。
 コンピにはさまざまなコンセプトがある。定番もののコンピは、収録される有名曲がそれぞれ個性的なので、どんな曲順で並べてもまずカッコよく決まる。これがオシャレを気取った雰囲気重視のコンピだと、選曲や曲順にいろいろ工夫が必要となる。
 アルト・サックスを並べるのが一番難しい。超個性派のマクリーンを雰囲気重視のコンピに使うことは稀だが、ルー・ドナルドソンの陽気な音色も、周りから浮かないように頭を悩ませる。でもブルーノートに珍しくスタンダードを多く録音しているので、彼を使いたくなる。反対に、テナー・サックスは低く渋い音色がジャズのムーディな雰囲気を醸しだす。だからアイク・ケベックの〈ロリエ〉など、あの〈処女航海〉ど同位になった。
 たとえ前述の三つの条件を満たしていても、TPOを考えて選曲しなくてはいけない。僕が担当しているFM局の番組でも一番苦労するところだ。でも、これが辛いけど結構楽しい作業なのです!

★ 新生ブルーノート・ベスト5
①『イン・ザ・モーメント』ダイアン・リーヴス(新BN.以下同)
②『ニュー・ムーン・ドーター』カサンドラ・ウィルソン
③『ファイツ・オブ・ファンタジー』ジョー・ロヴァーノ
④『インナー・サークル』グレッグ・オズビー
⑤『メデスキ、マーティン&ウッド』(原題“Uninvisible”)
番外編『ノラ・ジョーンズ』(原題“Come Away with Me”)
   『ハンド・オン・ザ・トーチ』アス・スリー

 70年代後半に静かに休眠に入ったBNだが、1985年マイケル・カスクーナらの尽力により、ブルース・ランドヴァルを迎えて復活。メジャーのキャピトル・レコード傘下にありながら、アルフレッド・ライオン譲りのインディのフット・ワークを持つレーベルとして、現在も話題作、問題作をリリースしている。
ダイアン・リーヴスは復活から現在に至るまで、そのキャリアをBNと共に歩んでいる。現代ジャズ・ヴォーカルの最高峰の圧倒的なライヴ・パフォーマンス・アルバムを選んだ。
また多様化する音楽シーンを体現する、カサンドラ・ウィルソンのグラミー受賞作も外せないだろう。
21世紀の“管豪”はジョー・ロヴァーノにとどめを刺す。現在まで20枚のアルバムをリリース、その醍醐味は小編成での、メロディが溢れ出るロング・ソロにある。さまざまなコンピネーションを網羅した『ファイツ・〜』を推したい。
 アート・ブレイキーの元には才能ある若手が集い、BNの歴史にも名を刻んだ。現代その大役を担ったのは、グレッグ・オズビーだ。巣立ったジェイソン・モラン、ステファン・ハリスらは、現代のBNの看板を背負っている。さらに、ジミー・スミスと契約した先進性は、90年代後半にも生きていた。NYアンダーグラウンド・シーンの寵児MM&W(メデスキ、マーティン&ウッド)は、BNから全米、世界へと飛び立った。その円熟期のアルバムをセレクトした。
 新生BNは、旧BNがなしえなかったビルボード・ポップス・チャート・ナンバー1も達成した。彗星のごとく出現したノラ・ジョーンズのデビュー・アルバムである。また旧BNとヒップホップを融合し、このレーベルの不変の新しさを広く世に知らしめたアス・スリー。このビッグ・ヒットを記録した二枚を、番外編として加えたい。

★ レア盤(完全オリジナル)ベスト5
①『クール・ストラッティン』ソニー・クラーク(1588)
②『ユタ・ヒップ・ウィズ・ズート・シムズ』(1530)
③『ハンク・モブレー』(1568)
④『ブルー・トレイン』ジョン・コルトレーン(1577)
⑤『イントロデューシング・ジョニー・グリフィン』(1533)

 ブルーノートはジャズの王者である。そんなBNのジャズは世の中に溢れており、レア盤なんてあるの?ということになるが、ことオリジナル盤(ファースト・プレス盤)に至っては入手が困難になる。たとえば、BNの1500番台全作品をオリジナル盤で揃えようとすると一生を要する。購入資金の問題が解決されても、「出会い」というのが解決されない。
 完全なオリジナル盤は、様々な条件をクリアしていなくてはいけない。そのキーワードは次のようになる。レコード盤のセンターラベルでは、「LEXINGTON」「47WEST63RD」「NY」「FLAT DISC」「DEEP GROOVE」「EAR MARK」「RVG」、Ⓡ有無、カバーでは、「INC」有無、「額縁ジャケット」。ラベルやカバー裏下部分に住所の記載があるが、これがまず重要なポイント。「LEX」は1543番位まで、「NEWYORK23」は、1577番(ただし片面のみも存在する)あたりまで、というように。BN盤に限らず昔のレコード盤にはセンターラベル付近に「DEEP GROOVE」(ミゾ)があり、重圧な存在感が頼もしかった。これも、4070番頃まで(諸説あり)刻まれており重要な要素。「EAR MARK」とはデッドワックス部分に草書体風に刻まれた刻印で、「耳」に形が似ていることに由来する。これにも諸説があるが、「PLASTYLITE」というプレスメイカーの機械の頭文字であるというのが近年定説になりつつある。Ⓡや「INC」は商標登録が絡む問題で、オリジナル盤判別の指針として、20年ほど前より重要視されている。
 では、前記に従ってBNの顔的存在『クール・〜』を検証してみると、住所は「47W63RD」で、「EAR MARK」有、「RVG」有、Ⓡ無、カバー裏にも「INK」無、セピア調の黄色がかったジャケットで完全オリジナル、状態の良いものは、50万円でも即売れてしまう逸品である。

★ 売行きベスト5
①『クール・ストラッティン』ソニー・クラーク(1588)
②『サムシン・エルス』キャノンボール・アダレイ(1595)
③『ザ・シーン・チェンジズ』バド・パウエル(4009)
④『ブルー・トレイン』ジョン・コルトレーン(1577)
⑤『処女航海』ハービー・ハンコック(4195)

 ブルーノートの売れ行きベスト5ということで、2004年6月から限定で発売になった「ブルーノート決定盤1500シリーズ」の売り上げ数を調べたのが上のリストになる。実に順当な順位だと思うが、そう思わせるところが名盤の強さだ。この「1500シリーズ」以降もアナログのコレクションやRVGリマスターと再発が続いているが、売行き上位のタイトルはさほど変わらないのが現状だ。
 膨大なブルーノートのカタログの中で、これらが売れ続ける理由は何なのだろう?それはたとえばジャケットのデザインだったり、モダンジャズの音=ブルーノートの音とされるくらいファンに愛される「音」そのものだったりするのだろうが、僕は実感として、名盤に名曲あり!を挙げたい。①には〈クール・ストラッティン〉が、②には〈枯葉〉、③〈クレオパトラの夢〉。④はタイトル曲〈ブルー・トレイン〉と迷うけども〈モーメンツ・ノーティス〉を、⑤〈処女航海〉という感じだ。どの盤にもブルーノートを代表する大名曲が収録されているのだ。
 振り返れば、僕自身も始めて買ったブルーノートのアルバムは『処女航海』だったと記憶している。もう30年も前の話だが・・・・・。
 そして、ブルーノートでいえば、グラント・グリーンの『ザ・ラテン・ビット』(4111)の溢れ出るノリノリ感や、ポール・チェンバース『ベース・オン・トップ』(1569)のB面でのケニー・バレルの素晴らしさ、ハモンド・オルガンを習うきっかけとなったジミー・スミスの『ミッドナイト・スペシャル』(4078)・・・・・等々をわが家のリスニングルームのお気に入りのステレオ・コンポでよく聴いたものだ。ヨーロッパのジャズが注目されたり、ピアノ・トリオのブームがあったりしても、売行きが不変のブルーノートの名盤たち。これからもレコードに代わり我が家のCDコレクションの棚は増え続けることだろう。

――― 完 ―――

ジャズ通の“Dr.NAKAJIMA”が選んだ不滅のジャズ名盤ベスト28

星の数ほどあるジャズアルバム。何をもって名盤とするかは勿論人それぞれなのだが、今回はあえて5つのテーマの中で「これがベスト・オブ・ベストだ」というお薦めのアルバムを、私なりに選んでみた。勿論、賛否両論は承知の上だが、深くジャズを聴き込んだ耳が、改めてアルバムを聴き直して選んだ名盤、是非聴いてみて欲しい。今更アルバムの説明も不要と思い、あえて省略させていただいた。

☆50年代の名盤BEST5

スウィングに代わり、ビ・バップ、ハード・バップが時代を席巻し始めた1950年代は、ジャズ・ジャイアンツたちがあちこちのクラブで熱いライブを繰り広げた華やかな時代。そんな50年代に録音されたアルバムから選んだベスト5は、――。
1位 KIND OF BLUE/MILES DAVIS
2位 SAXOPHON COLOSSUS/SONNY ROLLINES
3位 CLIFFORD BROWN&MAX ROACH/CLIFFORD BROWN&MAX ROACH
3位 PORTRAIT IN JAZZ/BILL EVANS TRIO
5位 THE GENIOUS OF BUD POWELL/BUD POWELL
5位 GIANT STEPS/JOHN COLTRANE
 50年代は珠玉の名盤が目白押しで、その中からベスト5を選ぶのは考えれば考えるほど至難の技であり、困難極まりない。今回私の場合、夢中で聴いていた時代のアルバムなので、愛聴盤を基準にした。いつの時代のベストランキングをみても、ほぼ常連の名盤で間違いはない。残念ながらランクイン出来なかったアート・ブレイキーホレス・シルバージャッキー・マクリーン、リー・コリッツ、そして誰もが聴いたウエスト・コースト・ジャズのアート・ペッパージェリー・マリガンチェット・ベイカー、それに50年代末オーネット・コールマンらの新しい波は、後々のジャズ・シーンを考えると忘れることは出来ない。

☆60年代の名盤BEST5

モード・ジャズ(新主流派)の時代、到来。更に、ジャズはニュー・ジャズ、フリー・ジャズを生み出しながら、多彩な才能を世に送り出してゆく。60年代に録音された名盤のうちのベスト・オブ・ベストは――。
1位 WALTS FOR DEBBY/BILL EVANS TRIO
2位 MAIDEN VOYAGE/HERBIE HANCOCK
2位 A LOVE SUPREME/JOHN COLTRANE
4位 MILES SMILES/MILES DAVIS
5位 NEFERTITI/MILES DAVIS
5位 COLTRANE LIVE AT BIRDLAND/JHON COLTRANE 
個人の好みが反映された結果なので、これをもってひとつの指針になるとは思えないが、それでも順位は別にして、上位の5作は妥当なところではないだろうか。どれが1位でもおかしくない。まあ、ジャズなんてそんなもの。行きつくところは個人の好みである。

☆日本ジャズの名盤BEST5

海外ばかりでなく、もちろん日本でも多くの才能が生まれ、熱いサウンドを聴かせてくれた。
渡辺貞夫山下洋輔秋吉敏子、菊池雅章・・・――。それぞれが日本ジャズの歴史そのものだ。
1位 SUSTO/菊池雅章
2位 PALLADIUM/佐藤允彦トリオ
3位 JAZZ&BOSSA/渡辺貞夫クインテット
4位 AFTER HOURS 2/菊池雅章
5位 MOBO渡辺香津美
こればかりは選ぶのに基準が難しく、苦労したが、やはり私が若かりし頃からの愛聴盤を基準にした。日本ジャズも再度改めて聴けばジャズの長い歴史と個性豊かなミュージシャン達の幅広さを理解できそうだ。


☆未来を感じさせる“今”の名盤BEST5

現在、ジャズ・シーンを牽引する若きアーティストたちが続々と登場してきている。
人気のヨーロッパ・ジャズは勿論、日本の才能にも注目したい。
1位 FIVE FOR FUN/HIGH FIVE
2位 BEYOND STANDARD/上原ひろみ
3位 THE WAY UP/PAT METHENY
4位 QUARTET/PAT METHENY&BRAD MEHLDAU
5位 THUNDERBIRD/CASSANDRA WILSON
 どの作品に未来を感じるかには、当然の事ながら個人差はあると思う。ファブリッツィオ・ボッソ(tp)を中心とした若手イタリアン・クインテットハイ・ファイブの新作『ファイブ・フォー・ファン』は、ハード・バップの現在形として主流派ジャズを体現する代表的な1枚。上原ひろみは日本人ジャズの歴史を軽々と塗り替えてしまった事実が事件だった。『ビヨンド・スタンダード』は既成の有名曲を再構築する手腕が新鮮極まりない。

☆ジャズ・ヴォーカルの名盤BEST5

人それぞれの好みが一番わかれるのが、ヴォーカルものだろうか。が、やはり歴代ディーパの存在感は大きい。現在の若手も含めて選んでみた。
1位 奇妙な果実/BILLY HOLIDAY
1位 MACK THE KNIFE/ELLA FITZGERALD
3位 TRAVELING MILES/CASSANDRA WILSON
3位 SARAH VAUGHAN WITH CLIFORD BROWN/SARAH VAUGHAN
5位 SATCHMO SERENADES/LOUIS ARMSTRONG
5位 UNFORGETTABLE/NAT KING COLE
 アルバムに順位をつけるというのは、もともと「評価」と「好み」の妥協で生まれるもの。それだけに選択者の「好み」がナマで出やすいという事だろう。私のラインアップ次第で結果がどう変わるか、4,5年後にもう一度やってみても果たして同じ答えが出るだろうか。ついそんな事を考えてしまう。

―完―

= JAZZ MEN BIG 10 = 「ジャズ史のなかの巨人たち」

サッチモことルイ・アームストロングはキング・オブ・ジャズと呼ばれたトランペット奏者。歌手、役者としても成功した偉大なエンターティナーだ。デューク・エリントン楽団とカウント・ベイシー楽団は黒人の二大ビッグ・バンドとして君臨。デューク・エリントンは幾多の名曲を書きカウント・ベイシーはカンサス・ジャズの伝統を生かした。ベニー・グッドマンクラリネットの名手で30年代の後半以降キング・オブ・スイングと呼ばれて大衆の人気を得てきた。マイルス・デイヴィスはバップに始まりクール・ジャズ、ハード・バップ、フュージョンと常に時代をリードする革命家であった。ソニー・ロリンズジョン・コルトレーンはよきライバルとして50年代から60年代にかけてモダン・テナー奏者として活躍した。ジョン・コルトレーンは精神的に富む演奏を行った。
 チャールス・ミンガスはデューク・エリントンの音楽をコンボに適用して作曲と即興演奏を両立させた。オスカー・ピーターソンはカナダ出身の黒人ピアニスト。スインギーなモダンジャズ・ピアノ・トリオの確立者。ビル・エヴァンスは白人ジャズの可能性を広げたリリカルでファンタスティックなピアニストであった。ベース奏者スコット・ラファロとのインタープレイが人気を呼んだ。
ここではジャズ史の中で私の選んだ10人のジャイアンツをジャズ・マスター・ディプロマ“Dr.NAKAJIMA”ならではの視点から、当時のエピソードやあまり表に出ないバイオグラフィーを交え、紹介する。

ルイ・アームストロング

 歌詞を忘れてとっさにスキャットでごまかして無事吹き込みを終えたのが〈ヒービー・ジー・ビー〉でこれがジャズ・スキャットのはじまりとなった。サッチモにはユーモアの感覚があり、芸達者のところがある。
 彼はジャズが生んだ最初の巨星であり、1931年に故郷ニューオリンズに錦を飾った時帰郷列車には数百人のファンが詰めかけ、歓迎パレードは街から街へと長い列ができ、“ようこそ故郷へルイ・アームストロング――パーディド通りの王様”という垂れ幕が下がった。正しくルイはニューオリンズが生んだ英雄といえる。
サッチモはグッドマンと並んでジャズ界では最もポピュラーな散在である。彼は雑誌“タイム”の1949年2月2日号でその表紙を飾った。ジャズメンが“タイム”の表紙になったのはこれが初めての事であり、ルイの人気とポピュラリティがわかる。さらに1966年4月15日には雑誌“ライフ”がルイのカバー・ストーリーを掲載した。またCBSTVは1957年に“サッチモ・ザ・グレイト”という一時間もののルイを主役にした番組を放映したが、その後この企画はレコードにもなった。彼は1970年に誕生70年を記念するアルバム「ルイ・アームストロング・アンド・フレンズ」というアルバムを吹き込んだが、このセッションにはボビー・ハケット、エディ・コンドン、ルビー・ブラフ、オーネット・コールマンらも顔を見せ、皆で〈勝利を我等に〉〈平和を我等に〉を合唱したりした。ルイはエンターティナーではあったが、人種差別に反対する姿勢を強く示す人でもあり、こういったフォーク・ソングを歌う必然性も大いにあった。この誕生祝の録音には夫人もつきっきりだった。夫人はルシール“シュガー・ベイビー・ウイルスン”といい4度目の奥さんで二人の結婚は25年以上に達していた。
彼女は美人でコットン・クラブのコーラス・ガールの出身だった。
カウント・ベイシー

 ある記者がベイシーに意地の悪い質問をした。「一聴衆として聞いた場合、あなたが一番スリルを覚えたベイシー・バンドの演奏は?」しばらく考えていたベイシーは「うーん、それは大分前だが、1951年のある晩の演奏は凄かったな。指揮していてもいささか興奮したよ」
 ちなみにその頃のバンドにはジョー・ニューマン、ベニー・パウエル、マーシャル・ロイアル、アーニー・ロイアル、エディ・デイビス、ポール・クインシェット、チャーリー・フォークス、ガス・ジョンスンといった名手がいた。
 普通ジャズのビッグ・バンドはコンサート用とダンス用の2種類の譜面を持っているのだが、ベイシーだけは一種類しか持っていない。あるコンサートで一緒になったビッグ・バンドのリーダーが「ベイシーさん、今夜は晴れの舞台だし、何か特別の曲を演奏するんでしょう?」と聞くと、彼は「なあにいつもと同じ古いビーフ・シチューよ」と答えたという。どこでもいつでも同じ曲を同じ様に演奏するのがベイシー楽団の特徴であり、魅力でもある。それというのも強烈な4ビートをもっていて、ジャズ・ナンバーでちゃんと踊れるからだ。従って、ベイシーはバンドを作る場合、先ずリズム・セクションから組み立て、次いでサックス・セクションの人選を行い、次いで残りの人選に入るという。
彼はバンドが持つ生命の鼓動はリズム・セクションによって決まるという持論を持っているからだ。
 ところで、ベイシーは1942年にジミー・ランスフォード楽団でちょっと歌ったことのある歌手キャスリン・モーガンと結婚した。二人の間には一人娘のダイアンがいる。ベイシーは家にいてピアノを弾いているか、演奏旅行に出ている時以外は野球を楽しみに出かけるか競馬に出かけるかしていた。
ジョン・コルトレーン

 コルトレーンが新進テナーとして颯爽と登場してきた時、アメリカのジャズ雑誌は“怒れる若きテナー”と呼んだ。コルトレーンの笑った写真等一つもなかったからだ。しかし彼は「皆が僕の音楽は怒りのサウンドだというけれども、僕は自分が思うように吹けなかった時自分自身に対して怒っているだけのことである」とこれを否定している。しかし彼は終生音楽とシリアスに取り組み、音楽と人間の生き方との合致を目指し、日本での記者会見では「聖者になりたい」という有名な言葉を吐いたが、かれはインド哲学に心酔していたので、この場合、聖者とはインドで言うグルの事であろう。彼の代表作として名高い「至上の愛」はコルトレーンが作曲、作詞したものだが、インドの音楽や思想に詳しいジョン・マクラフリンは、「至上の愛」はインド哲学にもとづく作品だと解説している。
 コルトレーンは、死の少し前「僕の人生にレジャーはなかった」と述懐しているが、これは正直な実感だろう。彼は一気に突っ走って40歳でこの世を去った。しかし、彼に親友がいなかったわけではない。一番仲が良かったのは、同じサックス奏者のソニー・ロリンズエリック・ドルフィーだった。
ドルフィーを別にすれば気軽に借金できたのはロリンズだけだった」とコルトレーンは言っている。
が二人は同楽器でもあり、ライバル意識も強かった。それだけにコルトレーンが急死した後、ロリンズは「しばらく気が抜けて放心状態になった」と語っている。
 コルトレーンにレジャーはなかったが女性はいた。最初の夫人ネイマとは精神的な絆で結ばれていたが、アリス・コルトレーンが現われてこの神話は崩れた。63年にアリスと出会い66年に二人は結婚した。しかしアリスに合う少し前コルトレーンには白人の恋人もいた。この白人女性の日記は『コルトレーンの生涯』に引用されているが、名前は明らかにされていない。この白人女性は今もって謎である。
マイルス・デイヴィス

 マイルスは自分のモットーを「常に動き、一箇所に留まらない事だ」と言ってきた。アメリカのダン・モーゲンスターンはかつてマイルスとのインタビューをまとめた時「マイルス・イン・モーション」というタイトルをつけた。つまりマイルスを変貌という視点でとらえたのである。マイルスは「オレたちの音楽は毎月変わるさ」と言い続けてきた。
 マイルスは変化する事、新しいものが好きだったから共演者にも常に新人を起用してきた。55年に5重奏団を結成したとき、ソニー・ロリンズが病気で参加を断ると、新進のジョン・コルトレーンをテナーに起用した。コルトレーンのテナーはユニークだったので、最初ファンや関係者からは「あんな無能な奴は早く首にしろ」と非難轟々だったという。しかしマイルスは「おれはコルトレーンの将来性と可能性を買っているのだ」と言い敢然と使い続けた。コルトレーンは2年も経たない内に実力を発揮してスターとなり、マイルスは世間に対して「ざま見やがれ」と言った。
 エリントンは黒人も白人以上に優雅、高貴になれることをその音楽と立振る舞いで示して黒人のコンプレックスを取り払ってきたが、マイルスは自ら黒人の英雄になることで多くの黒人達に自信を持たせた。そのためにマイルスは音楽的にも人間的にも最高にカッコよくなろうとし、パワーを身に着けようとした。70年代に入るとマイルスはボクシングのジムに通って肉体を鍛えた。楽屋でも気に入らない奴が入ると冗談を言いながらもボクシングのジャブで相手をこずいた。その筋肉の引き締まったマイルスの肉体を見た渡辺貞夫は「ジャズマンはこうでなくては」と感嘆した。
ビル・エヴァンス

 ビル・エヴァンスマイルス・デイヴィスに気に入られていたのに、何故58年にほぼ1年近く在団しただけで辞めてしまったのだろう。その点を聞かれたビルはこう答えている。「マイルスとの共演は最高にスリルがあったがレコーディングのとき、彼は前もってリハーサルなどやらないで、当日ちょっと打ち合わせしただけで別テイクもとらず一発で決めてしまうという録音の方法が怖くなってノイローゼになりそうなので辞めさせてもらったのです」。やはり神経質なビルにはマイルス方式は合わなかったのかも知れない。しかし「マイルスから学んだものは計り知れない程大きいものがあった」とビルは語る。「僕のモード手法を用いたバラッド演奏はマイルスから学んだもので、テンポの自由な変化、ビートとノー・ビートの部分の自由な組み合わせの効果はマイルスが教えてくれたものである」とも言っている。逆にマイルスもビルの感性から学ぶものは多かったとビルを賛えている。
 ビルは1980年9月14日にニューヨークのクラブ“ファット・チューズディ”に出演中倒れ、翌15日に急死してファンを悲しませたが、クラブがビルの代役に起用したのは第二のビル・エヴァンスと呼ばれている新進白人ピアニストのアンディ・ラバーンであった。
 考えてみればビル・エヴァンスには60年代以降死の影につきまとわれていたとも言える。しかし、そこから生まれる悲哀と哀愁感がビルの魅力でもあったとも言える。61年7月には最高の相手役だったベースのスコット・ラファロを自動車事故で失い、60年代末には父を病で失ったが、父の死は〈イン・メモリー・オブ・ヒズ・ファーザー〉という美しい自作のピアノ・ソロ演奏を生んだ。また数十年前には夫人を自動車事故で失くし、79年には兄が自殺した。兄の死を悼んで演奏したのが〈ウィ・ウィル・ミート・アゲイン〉だった。過去の身辺の死を全て克服してプレイを続けて来たビルも自己の運命には勝てなかった。
デューク・エリントン

 デュークは1974年に亡くなったが、彼の音楽は今も生きている。スティービー・ワンダーはデュークを賛える曲〈サー・デューク〉を作曲し、マイルス・デイヴィスも休養直前に2枚組「ゲット・アップ・ウィズ・イット」をデュークに捧げ、我々は皆朝晩デュークに感謝の気持ちを表明すべきだと言った。フュージョンウェザー・リポートまでデュークの作品〈ロッキン・イン・リズム〉を演奏して甦らせた。
 デュークの人気は1930年代から大変なもので、30年代に南部各地に巡演した時は、バス・ツアーではなくて、2両仕立ての列車で廻るという人も羨む贅沢さで、毎日汽車の中で飲んだり食べたりパーティを開いたりしながら各地を巡演したので、世間の人達は「あれはまるで大統領の旅行みたいだ」と羨ましがったものである。
 デュークは作曲に関しては早書きの天才であった。ミュージカル・ショウを一晩で書いた事もあるし、かの有名な大作〈ブラック・アンド・タン・ファンタジー〉は1927年になんとタクシーの中で作曲したのだという。何でも前の晩ホテルでドンチャン騒ぎをして朝9時からの録音に作曲が間に合わなくなったからである。また名曲〈ムード・インディゴ〉は母親が作ってくれる料理を待っていた15分間で書き上げたし、〈ソリチュード〉は他のバンド録音が終るのをガラス越しに待っていた間に立ったままで書き上げたのである。ビリー・ストレイホーンはデュークの片腕以上の存在で、二人の共作は40年代以降一気に増えた。「ビリーのいないエリントンは林檎抜きのアップル・パイみたいなものだ」とデュークはビリーを信頼していた。
ベニー・グッドマン

 ベニーはロシア系のユダヤ人である。従ってジギー・エルマン、ジーン・クルーパ、スタン・ゲッツ等多くのユダヤ系ミュージシャンが去来し、〈素敵な貴方〉や〈天使は歌う〉といったユダヤ系音楽をさかんに演奏した。その代わりユダヤ人なので黒人に対する偏見もなく、チャーリー・クリスチャン、クーティ・ウィリアムス、フレッチャー・ヘンダーソン、ウォーデル・グレイら多くの黒人達と一緒に仕事をした。キング・オブ・スイングと呼ばれたベニーは巨大な富を築き、広い牧場をもち悠々自適の生活を送っていたが、自分の音楽的長寿の秘訣は余裕のある生活のたまものだと言っていた。
自分のペースを崩さない生活態度は立派なものだった。
 ベニーは1973年にライオネル・ハンプトンジーン・クルーパー、テディ・ウイルソンというオリジナル・カルテットを組んでなんと35年ぶりにカーネギー・ホールに出演したが、このコンサートは早くからチケットが売り切れ、ステージの後ろにまで椅子が並べられ、超満員の演奏となった。ベニーもさすがに35年ぶりのカーネギー・ホール出演とあって、「ここに35年ぶりにオリジナル・メンバーで出演できたのは本当に幸せだ」と挨拶すると、70歳を超える夫人の間からすすり泣きの声さえもれてきたし、多くの人がハンカチで目頭を押さえていた。70歳以上の観衆の中には35年前の1938年に行われた、かの有名なカーネギー・ホール・コンサートを聴いた人も沢山いたのである。しかもオリジナル・カルテットの演奏はこれが最後になったのだ。翌74年にジーン・クルーパーが白血病で亡くなったからだ。
 近年ニュー・スイングの台頭がみられるが、この中心人物スコット・ハミルトン、ウォーレン・ヴァシエ、カル・コリンズ、ジョン・バンチらはみんな近年のグッドマン楽団で演奏してきた人達ばかりである。ベニーは今もキング・オブ・スイングなのだ。
□チャールス・ミンガス

 晩年のミンガスは大食漢となり、太った身体を自分の足で支えきれなくなり1977年にエイベリー・フィッシャー・ホールで自分の作品を演奏した時は、立って指揮したのは1曲だけで、後は椅子に座ってベースを弾いただけであった。一時ミンガス・グループのピアニストだったことのある秋吉敏子が「ミンガスって洗面器で食事するのよ」とその大食ぶりに呆れていたことがあるが、2度目に来日した時も、フル・コースのディナーを食べた後、大きな西瓜を1個一人で平らげて関係者をびっくりさせたという。
 しかし、巨体の割にはミンガスは気が小さかったのでも有名で、一番尊敬していたデューク・エリントンと「マネー・ジャンクル」の録音で共演したときは、緊張で足がガタガタ震えて、しばらくはまともにベースが弾けなかったといわれる。彼はまた気が短くて怒りっぽく、クラブに出演した時等場内がざわついていると、マイクでお客に説教したり喧嘩をふっかけたりしたものだが、メンバーだったジミー・ネッパーを殴って顎を傷つけて訴えられたり、武勇伝にはこと欠かなかった。一時は自分の演奏を勝手に編集するといって怒り、全てのレコード会社と喧嘩し、自費出版していた事もある。
 ミンガスは50年代の中期以降ジャズ界をリードする存在となり、巨匠と呼ばれるようになったが、黒人ジャズが不況となった1951年には仕事がなくなりジャズに見切りをつけ、郵便局員に転職してしまった。ところが51年の暮れに近所まで来たからとチャーリー・パーカーから電話があって、近所のレストランで久々にパーカーに会うと「君の曲はとてもいいよ」と賛められて勇気が湧き、ミンガスはジャズ界に復帰する決心をしたのである。このパーカーからの運命の呼び出し電話にちなんでミンガスが作曲した曲が〈バード・コールズ〉であり、パーカーを拳銃さばきの名手にたとえた〈ガンスリンギング・バード〉というユーモラスな曲もミンガスは作曲している。
オスカー・ピーターソン

 J.A.T.P.のプロモーターだったノーマン・グランツは1949年にモントリオールからタクシーに乗って空港に向かう途中、ラジオから流れてきた鮮やかなジャズ・ピアノに魅せられ、わざわざ市内に引き返してクラブまで演奏を聴きに行った。そのピアニストがピーターソンでグランツは強引にアメリカに連れて来た。この年の9月ピーターソンはニューヨークのカーネギー・ホールでコンサートを開いた。カナダからグランツが凄いピアニストを連れて来たから、ひとつ冷やかしに行こうとニューヨークのミュージシャンもかなり詰めかけた。最初はやじったり、場内もざわついていたが、その内水を打ったように静かになった。そして終って出てきたミュージシャンの顔を見ると、みんな真っ青だったという。みんなピーターソンの完璧なテクニックと圧倒的なスイング感とダイナミックなプレイに度肝を抜かれたのである。
 50年にはグランツのJ.A.T.P.に加わって世界を巡演、51年以降トリオも組んで活動した。彼がユニークなスタイリストでありえたのは黒人でありながらカナダというアメリカから隔離された国でピアニストとして育ちバド・パウエルの影響をまともに受けず、アート・テイタムナット・キング・コールを手本にしてきたからだ。彼はカナダの他の芸術家同様アメリカに進出して名声を得たが、カナダに対する郷土愛は人一倍強く、今も妻とトロントの湖畔の家に住み、オンタリオ湖の傍には別荘も持っている。このカナダへの愛着を音で表わしたのがカナダの美しい風物を素材にして作曲し、ピアノ・トリオで演奏した「カナダ組曲」であった。
 ピーターソンはまた批評家嫌いといおうか批評家をあまり信用しない。彼はかつて「批評家とミュージシャンが一緒にレコードを聴けば解るが、批評家は音楽の肝心な点を聴き逃す場合が多い」と発言したことがある。
ソニー・ロリンズ

 1981年1月に来日したロリンズはまことに上機嫌ではしゃぎすぎと思えるほど次から次へと吹きまくって聴衆を興奮させたが、必殺の4バース・チェンジでついには若手ドラマーのアル・フォスターまでダウンさせ、打楽器奏者が助け舟を出すほどであった。ロリンズの上機嫌とエネルギーに溢れたプレイは前年夏の総入歯がうまくいったからだろうと、もっぱらの噂であった。
 ロリンズはかつては強度のそううつ病で過去3度も雲隠れしているが、最初の雲隠れの時は、マックス・ローチがシカゴで探し当てた時、ビルの清掃人になっていたという。ブラウン=ローチ5重奏団のテナー、ハロルド・ランドが父親の急病で帰郷してしまった時、ローチは困って引退中の親友ロリンズにシカゴ公演だけでも付き合ってくれと頼み込んだのである。ロリンズは気は進まなかったが、ローチのたっての頼みとあっては断わり切れずに一週間のシカゴ公演への参加だけを約束したのだった。ところがロリンズは一緒に演奏してみて驚いた。クリフォード・ブラウンのあまりの素晴らしさに圧倒されてしまったのである。ロリンズは人間嫌いになって引っ込んでいたのだが、「この世にはまだブラウンの様な温かい純真で率直な心を持ったジャズマンがいるのか。彼と共演できるならもう一度ジャズを演奏したい」と言ってロリンズはそのままブラウン=ローチ・コンボの正式メンバーとなり、ジャズ界に復帰したのである。
 ロリンズが3度目の雲隠れからジャズ界にカムバックしたのは1972年の事だった。復帰するとすぐニューヨークのヴィレッジ・ゲートに出演したが、一週間の出演期間中毎晩リズム・セクションを変えたという。彼はおおらかな反面神経質なところもあるのだ。長くロリンズと共演した増尾好秋は「彼はプレイの上で、ああしろ、こうしろと注文はつけないが、気に入らないとすぐ首にしてしまうから怖い。僕は2年も一緒に共演できたのだから気に入られていたんでしょうね」と語っている。

ブルーノートとECM

創設者の情熱がジャズの歴史を創った、「最個」2大レーベルの物語

一介のジャズ愛好家が、自らレコードレーベルを起こし、ジャズ史を大きく変える金字塔を成し遂げた。そんな夢のようなサクセス・ストーリーがジャズにはある。それも音楽、ミュージシャンからレコーディングの音、ビジュアルデザインまで全てにわたって、最高の個性を刻印して。
ブルーノートのアルフレッド・ライオンとECMのマンフレッド・アイヒャー、この二人がそうだ。
ファンの間で世界一のジャズ・レーベルといえば、よほどのへそ曲がりでない限りブルーノートという答えが返ってくる。何故ブルーノートがそう呼ばれているのか?それはドイツ移民で創始者のアルフレッド・ライオンが、商売抜きで優れた才能を世に紹介し続けてきたからだ。
英語もろくに話せないドイツ人のジャズ好きフリーターが、マイナー・レーベルを立ち上げる。
その名は「ブルーノート
1908年4月21日、ライオンはドイツの首都ベルリンで生まれた。父親は建築業を本業にしていたが、美術品の熱心なコレクターで、友人とアート・ギャラリーを経営するような人物だった。こうした環境が後のライオンに美術商の道を歩ませたのだろう。彼がジャズと出会ったのは1925年の事で、最初に聴いたのはサム・ウディングとチョコレート・キディーズというグループだった。
 そのライオンが会計学を学ぶ口実で、わずか100ドルを持って最初に渡米したのが1928年のことである。このときはほとんど英語も喋れなかった。そのため、低賃金の肉体労働で食い繋ぎながらデユーク・エリントンやジェリー・ロール・モートンなどのレコードを買い集めたという。しかし精根尽き果てた彼は1930帰国している。
 その後ライオンは、フランス人の銀行家と再婚した母親についてフランスへ渡る。ユダヤ系の彼女は反ナチスレジスタンスに身を投じ、息子であるライオンはナチスの勢力拡大に伴い、自身の身も危険になったことから美術品の貿易をする会社の社員として南米のチリに脱出したのだった。そこで2年間働いた後の1937年、知り合いの紹介でニューヨークの会社に雇われ、彼は再び憧れの街にやってくる。
 運命の時が訪れたのは翌年の事だ。1938年12月23日、「カーネギー・ホール」で開かれた『フロム・スピリチュアルズ・スイング』と題されたコンサートに行く。このときに聴いたアルバート・アモンズやミード・ルクス・ルイスのブギ・ウギ・ピアノに感激したライオンは、コンサート終了後に楽屋を訪ねてレコーディングを申し込む。
 年が明けた1939年1月6日、マンハッタンの貸しスタジオでライオンは二人のレコーディングを行う。このセッションは個人的な楽しみのつもりで、レコーディングをするまでは自分と友人たちのためにごく僅かな枚数をプレスして終わりにする予定だった。しかしあまりに内容が素晴らしかったことから、ライオンは最初の考えを変更し、この演奏を市販することにした。ブルーノートの歴史はここから始まる。
 1939年に誕生したブルーノートは、当初ブギ・ウギ・ピアノやニューオリンズ・ジャズなどのクラシック・ジャズをカタログに並べていた。ところが1940年代になると、ジャズはビバップと呼ばれるモダン・ジャズの時代を迎える。その路線にブルーノートは他のレーベルより一歩遅れて参入したものの、そこからの快進撃には目をみはらされるものがあった。無名のセロニアス・モンクに最初からリーダー録音を行わせたことも、このレーベルの大きな実績になっている。売れ行きは芳しいものでなかったが、それを継続させたことで彼の重要な吹き込みが数多く残せたからだ。
 ブルーノートには、モンクと同じ様にやがてジャズの世界でスターになるアーティストの初リーダー録音が極めて多い。アート・ブレイキークリフォード・ブラウンホレス・シルヴァールー・ドナルドソンジミー・スミスハンク・モブレーリー・モーガンソニー・クラークなど、枚挙にいとまがないほどだ。
 理由は、ライオンが熱狂的なジャズ・ファンだったからに他ならない。夜な夜なジャズ・クラブに通い、自分の気に入ったアーティストに声をかけてはレコーディングを繰り返したのである。個人で運営しているから予算は潤沢でない。そこで無名のアーティストのレコーディングに精を出す。それらのいくつもがやがて名盤と呼ばれるようになり、多くのアーティストがジャズの世界を代表する存在に育っていく。それは、ひとえに彼が優れた耳と見識を持っていたからだ。
 ライオンは1966年にブルーノートの株をリバティ・レコーズに売却している。その後も同社の重役としてプロデュース業を続けたものの、一年後には体調を崩し、音楽業界から引退している。しかし以後もブルーノートの創業精神は守られ、現在までトップ・レーベルとしてジャズの世界に君臨してきた。
 ブルーノートの創業精神――それはジャズの最も新しい姿を記録に残すことである。ライオンはこれぞと思ったアーティストには、その作品が売れようが売れまいが、本人が希望するならいつでもレコーディングすることを厭わなかった。それが世界一のジャズ・レーベルに育て上げた原動力だ。
「わたしにとって、レコーディングはパーティのようなものだった。スタジオに集り、食事やお酒を楽しみながら雰囲気を盛り上げる。そうなると、ミュージシャンは決まって素晴らしい演奏をしてくれた。彼らが楽しい気分で演奏してくれて、喜んで帰っていく姿を見るのが何より好きだった」(ライオン)
 そんな思いでレコーディングをしていたプロデューサーはどこにもいない。誰よりジャズが好きでミュージシャンを愛していたからこそ、こういうことが出来たのだ。世界一のジャズ・ファンが作った世界一のジャズ・レーベル――こう呼べるのはブルーノート以外にありえない。

独自の音楽的感性と強い信念を持つドイツ人が創ったヨーロッパ発のレーベル「ECM

 マンフレッド・アイヒャーがミュンヘンで設立したECM(Edition of Contemporary Music)は、透明感に溢れた特徴的なサウンドで高い人気を誇っている。とりわけキース・ジャレットを迎えてからは、次々と発表される作品が常に高い評判を得た事で、ECM自体も人気と信頼性を絶大なものにしてきた。無名時代からパット・メセニーの作品を制作していたこともこのレーベルの評価に繋がっている。いかにもヨーロッパ的なフリー・ジャズやクラシカルな響きを伴う作品、あるいはエスニック風味の音楽などによって、熱烈なファンが多いこともECMの特徴だ。
 創立者のアイヒャーは1943年7月9日、旧西ドイツ南部のリンドで生まれた。地元の音楽院でベースを学んだ彼がECMを設立したのは1969年のことである。それ以前はベース奏者として活躍していたといい、相当な腕前だったようだ。
 次いで、EMIヨーロッパ、フィリップス、MPSといったレコード会社でプロデューサーとなり、クラシックとジャズの作品を制作している。こうしたキャリアを通し、自分が理想とする音楽を追求するべく立ち上げたのがECMだ。
 ECMはレーベル名のとおり、設立されてからこれまでの40年近くに渡り、常に時代の先端を行く音楽を記録してきた。これまでに1000枚以上のアルバムをリリースしてきたが、1枚たりともコマーシャルな作品はない。そのことは、ファンなら先刻ご承知だろう。無名ながら優れたヨーロッパのアーティストを次々と紹介してくれているのもアイヒャーの強い信念に基づいている。
「純粋で簡潔な音楽やミュージシャンに惹かれる。“簡潔”は単純という意味ではなく、素朴といってもいい。新人との出会いは殆どが偶然だ。例えばアルボ・ベルト(「ECMニュー・シリーズ」開始のきっかけを作ったアーティスト)の場合は、カー・ラジオで聴いた彼の演奏に感銘し、何者かを調べようとしていたところ、エストニアからデモ・テープが届けられた。また、設立当初は、ヤン・ガルバレクチック・コリアなど旧知のミュージシャンの紹介で、あっという間に素晴らしいアーティストたちが集ってきた」(アイヒャー)
 ECMのカタログを彩る顔ぶれは多彩だ。私達はこのレーベルを通し、未知の素晴らしいアーティストや音楽に触れてきた。「ECM」とジャケットに印刷されていれば内容は保障されたも同然だ。レーベル特有の音楽性やサウンド(音質も含めて)が気に入っている人なら、どの作品を聴いても大きく失望する事はめったにない。そういう点で、ECMはブランドである。
 特筆したいのは、どの作品をとってもカッティング・エッジな内容であることだ。例えば、ジャズ・ファン以外の人達からも支持されているキース・ジャレットの諸作を考えてみればいい。イージーな演奏などひとつもない。ソロ・ピアノにしても、評判のトリオにしても、内容はかなり高度だし難しい。それでもECMの作品が多くのひとから愛されてきたのは、どんな時でもアイヒャーが誠実にジャズの最先端を紹介してきたからだ。
 クォリティの高いジャケット・デザインと並び、ECMの人気を支えているもうひとつの大きな要素が透明感に溢れた音質である。アイヒャーはレコーディング・エンジニアとして活躍していた経歴も持っている。そして、こちらは同業のヤン・エリック・コングショウの貢献を抜きには語れない。アイヒャーもエンジニアとして優れているが、ECMの根幹を成すサウンドは彼とコングショウとで作り上げたものだ。アイヒャーが理想とする音――それは従来のジャズ・サウンドとは全く違う。
 ブルーノートで代表されるジャズのサウンドは、低音に厚みを加える事でエネルギーに溢れた響きを特徴としたものだ。ところがECMは、いってみればそうしたジャズの常識的なサウンドを根本から覆している。低音ではなく、高音の美しさや伸びを強調することで、このレーベルは格調高いサウンドの獲得を目指したのである。荘厳な響きとでもいえばいいだろうか。教会で聴く音楽のように澄みきったサウンドは、「透明感に溢れた音色」
と形容されることが多い。
 そのサウンドをアイヒャーと組んで作りあげたコングショウはこれまでに1000枚以上のレコーディングを手掛けている。中でも700枚は下らないというECMの録音は、その名声を燦然と輝かすものになった。キース・ジャレットジョン・アバークロンビーポール・ブレイ、ミロスラフ・ヴィトゥス、ラルフ・タウナーチャーリー・ヘイデンゲイリー・ピーコック、チャールス・ロイド、スティーブ・キューン、ヤン・ガルバレク、ビル・フリーゼル、チック・コリア――これは彼がこのレーベルで手がけたアーティストの一部だ。
 ECMは、ジャズ、そしてそこから派生した新しい音楽、さらには前向きで創造的なクラシックや現代音楽までを包括する大レーベルに育った。しかも発足当時からのアーティストの多くを今も大切に育てている。こんなレーベルはふたつとして存在しない。それは、頑固たる信念を持ったアイヒャーが、いまも個人レーベルとして100パーセント自分の思いをこのレーベルに託しているからだ。

音楽のタイプは全く違う2レーベルだが、驚くほどの共通点を持つ

 ドイツ生まれの二人のジャズ・ファンが設立したレーベル。それがブルーノートECMだ。時代も違えば、カタログに並ぶ音楽のスタイルやタイプも全く違う。しかし、どちらもその時代の最先端に位置するジャズを記録する事に心血を注いできた。
 ライオンがブルーノートを去ったのは1967年の事である。そしてそれから2年後にECMが誕生した。まるでライオンの思いを引き継ぐように、アイヒャーは彼と同じ考えを、そのレーベルを通して実践してきた。すなわち、演奏はもとよりサウンドからジャケットに至るまで強いこだわりを示していることだ。
 透明感に溢れたサウンドは“ECMサウンド”と呼ばれるほど特徴的だ。ブルーノートも独特のサウンドによってレーベルのイメージを確立している。こちらは名匠ルディ・ヴァン・ゲルダーが多くの作品でエンジニアを務め、以後のジャズ・レコーディングのスタンダードとなる音を作り上げた。“ヴァン・ゲルダー・サウンド”あるいは“ブルーノートサウンド”と呼ばれる音がモダン・ジャズの魅力を見事に伝えている。また、フランシス・ウルフが写真と共に、リード・マイルスが手がけたジャケット・デザインで人気が高い。
 ECMでは“ヨーロッパのヴァン・ゲルダー”と呼ばれるコングショウを主任エンジニアにして、ブルーノートとは全く違うが、これまた誰が聴いてもECMの音と解る独特のサウンドを育んできた。
 ジャズはアメリカで誕生した音楽である。しかし、ライオンとアイヒャーという二人のドイツ人によって新しい歴史が作られ、そこから次なる動きに広がっていった。極論を言わせて貰うなら、モダン・ジャズはブルーノートに残された諸作を聴くだけでいいし、それ以降の音楽はECMのカタログに耳を傾ければ事足りる。
 二人の熱狂的なジャズ・ファンが設立したこれらのレーベルに、ジャズのあらゆる魅力が盛り込まれている。ライオンが去った後のブルーノートは創業精神を受け継いだ後輩達によって今も世界一のジャズ・レーベルの地位を守っているし、アイヒャーは相変わらずECMで最先端のジャズをクリエイトしている。これら二つの素晴らしいレーベルから送り出される作品が享受できるジャズ・ファンとは、なんと幸せな人種なのだろう。

【私の選ぶブルーノート5選】
バードランドの夜 Vol.1&2/アート・ブレイキー

 ハード・バップの萌芽を記録したライブ。ブレイキーをリーダーに、やがてジャズの世界を背負って立つ若手オールスターズによる演奏はフレッシュな響きの中にも強い勢いを感じさせる。ハード・バップ特有の躍動感に溢れた演奏が小気味のいい歴史的名盤。
ブルートレインジョン・コルトレーン

 コルトレーンブルーノートに残した唯一のリーダー作。ここでは3管のアンサンブルを率いて、スリリングな展開の中にも寛いだ雰囲気の演奏を繰り広げる。ブルーノートならではのハード・バップ・サウンドが、とりわけ表題曲の演奏に色濃く反映されている。
クール・ストラッティン/ソニー・クラーク

 クラークはアメリカより日本での人気が高い。それを決定的なものにしたのがこの作品。《後ろ髪を引かれる》と形容される強力なバック・ビートが独特のブルージーな響きを醸し出す。それがファンキーこの上ない演奏を一層魅力的なものにしてみせる。ジャズ喫茶における永遠の人気最上位盤。
サムシン・エルス/キャノンボール・アダレイ

 ブルーノートに限らず、全てのジャズ・アルバムの中で最も高い人気を誇っている永遠の“超”ベストセラー。とりわけマイルス・デイヴィスがリーダー然とテーマ・メロディから素晴らしいソロまで吹く「枯葉」が見事。この曲が高い人気の理由である。
モーニン/アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ

 メッセンジャーズがブレイクするきっかけとなった作品。ベニー・ゴルソン音楽監督に迎えて発表したファンキー・ジャズをテーマにしたアルバムで、大ヒットしたタイトル曲をはじめ「ブルース・マーチ」「アロング・ケイム・べティ」など名曲がずらりと並ぶ。

【私の選ぶECM5選】
フェイシング・ユー/キース・ジャレット

 キースが世界的に注目を集めるきっかけになった作品。トリオで演奏する時もそうだが、彼の音楽には、ジャズ、ブルース、ゴスペル、フォーク、エスニック等、様々な要素が混在している。それらがひとつの流れの中で自在に組み合わさる面白さは格別。
リターン・トゥ・フォーエヴァーチック・コリア

 “カモメのチック”と呼ばれるこの作品には、コマーシャルな側面を持ち合わせながら、音楽的には近未来を予言した創造的な内容が盛り込まれている。現代にも通じる斬新なリズム感覚とラテン風エスニック・ムードの横溢した独特のフィーリングが印象的。
ヌー・ハイ/ケニー・ホイーラー

 いかにもECMらしい透明感に溢れたホイラーのフリューゲルホーンが美しい。思索的で牧歌的。その彼に絡むキース・ジャレットのピアノにも格別の味わいがある。リリシズムに溢れた演奏は二人が最も得意とするところ。こんな共演もECMならでは。
オフランプ/パット・メセニー

 メセニーもECMに育てられたひとりだ。シンセ・ギターを大胆に駆使したサウンドは躍動的で挑発的。それでいていかにもECMらしい美しい響きに貫かれている。日本ではコマーシャルにも使われた「ついておいで」が評判になったが、全曲が名曲の充実作。
ライヴ!/カーラ・プレイ

 フリー・ジャズの世界で“才女”と呼ばれていたカーラがなんともポップでカラフルな演奏を繰り広げる。小型オーケストラから紡ぎ出されるサウンドはリズミックで親しみやすい。それでいてフリー・ジャズの要素も忘れていない。そこが才女の才女たるゆえんだ。

● 私が考えるジャズ名録音ベスト5+1

ジャズの名録音とは何だろう。名録音必ずしも名演奏ではなく、名演奏必ずしも名録音ではない。
 ここでは、私が今までに聴いたアルバムの中で最も録音が優れていると思うもの、つまり最もジャズを感じさせる録音のアルバムを選び、そのアルバムに対する思い入れ、聴きどころを記す。
 
■ ライブ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガードジョン・コルトレーン(Impulse)
行動の美をしっかり捉えた名録音で、彼等のパフォーマンスを追体験できる

ジャズはパフォーマンスの芸術だ。ミュージシャン同士が触発しながら次第に精神を高揚させ、1回限りの名演を残す。そこに居合わせた者だけが享受出来る幸せだ。
   こんな瞬間を見事に捉えた1枚に「ビレッジ・バンガードのコルトレーンドルフィー」がある。エンジニアはジャズ録音の名匠、ルディ・バン・ゲルダー。1961年11月の事。演奏は何の打ち合わせも無く始まった。コルトレーン自身、「メロディも書かなかったし、どんな曲になるかも考えていなかった」と。その無名の曲はエリック・ドルフィー(bcl)、レジー・ワークマン(b)、エルビン・ジョーンズ(ds)の4人の力演で飛翔した。その時、ルディは何をしたか?
   ステージ直前に陣取ったルディは1本のマイクをしっかりかかえ、コルトレーンのテナーの歌口10センチの位置を最後まで死守し、名演はしっかりと録音された。それまで無名だったその曲はルディの行動にちなんで〈チェイシン・ザ・トレーン〉と名付けられた。音は決して良くないが、こんな録音は好きだ。見事に出来上がってキラキラ光る建築物を見上げて、ホッと驚くのも良いが、石を削り土を盛るパフォーマンスが追体験出来るジャズ録音がやはり素晴らしい。

 ■ オパス・デ・ジャズ/ミルト・ジャクソン(Savoy) 
楽器の音をより忠実にという基本姿勢が貫かれているからあったかい 

 サヴォイがジャズ・レコーディング史上に残る名盤を多数制作できたのは、優秀なプロデューサーが居たからで、40年代半ばから後半にかけてはテディ・レグがチャーリー・パーカーを初めとする初期モダン・ジャズの貴重な録音を手掛けた。彼の退社後一時期ジャズ部門は低調になるが、54年に迎えられたオジーカデナが当時の新進気鋭ミュージシャン達を次々と録音して第二黄金期を築くことになる。
本アルバムはカデナ・プロデュースの1枚で「ブルースエット」に先駆けての大ヒット作になったもの。カデナのポリシーは自ら語っている様にエキセントリックにならずエモーショナルもの、しかもメロディックなものを作る事に加えて、リラックスしたメローなサウンドに仕上げる事であった。かくて本アルバムは
彼の狙い通りの秀作となった。カデナのポリシーは、サヴォイのジャズが同じハード・バップ路線を追求していても、ブルーノートやプレスティッジとは一味違った好作品を続々産み出す要因たなったが、本アルバムはその好例の一つ。
 このセッションに参加したミュージシャンの殆どがもうこの世に居ない。しかし彼等の名演ぶりがレコードの中で永遠に不滅であることは、ジャズを愛する人にとって何よりの幸せと言えよう。

  ■ ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン(Emarcy)
ヘレン・メリルの心が実にしっかりと伝わる名盤中の名盤

ジャズ・アルバムの中には歴史的に貴重なもの、数々の名演奏等があるが、このアルバムの様に永く愛され、しかも常に聴かれ続けている作品は他に無いのではないかと思う。そしてこのアルバムには名盤としての条件が整っている。ヘレン・メリルの温かみのある実に上手い歌、そこに女性としての心がしっかり表現されている。バックのクリフォード・ブラウンの様に唄うトランペッターはもう居ない。素晴らしいアレンジはクインシー・ジョーンズ。そしてこのアルバムには数々のドラマがある。わずか26歳でブラウニーことクリフォード・ブラウンは死亡する。このアルバムは死の直前の作品であり、彼の死は彼と行動を共にしていたミュージシャン達のその後の性格までも変えてしまう程であった。それ程仲間から愛されたブラウニーは心優しきジャズ・マンであった。ヘレンは日本に住んでいた事があるし、日本を心から愛していた。そして又このアルバムはモノラルからステレオへの過渡期の作品で初期のステレオ・レコードが逆立ちしても敵わない、素晴らしい音を持っている。このジーンと来る感動!常にマイ・フェイバレット・アルバムだ。

■ マルサリスの肖像/ウイントン・マルサリス(CBS)
このレコードを聴くために新しいカートリッジを買ってしまった最高にご機嫌なアルバム

 81年録音のウイントン・マルサリス初リーダー作。彼を日本に紹介したハンコックのトリオと、初期からのパートナー、ケニー・カークランドを中心とするトリオを使い分ける豪華さだが、驚くべきはやはりウイントン自身の驚異の吹奏レベル。25年以上前の作品だが、この25年間聴いてきた多くのトランペット奏者の「ネタ」が満載のように感じる。音色もタンギングアーティキュレーションも。
  ジャズ・トランペットを何とかしようとする気概と工夫がここにはある。アルバムの1曲目から、「凄い!」と言う以外の言葉は受付拒否の圧倒的な演奏が疾風の様に駆け抜ける。この一撃で惰眠をむさぼっていたジャズは目を覚まし、ドラッグとアルコール漬けの日々を送っていた帝王マイルスが「シット!」と言う言葉と共にベッドから飛び起きたと言っても過言ではない。
  全曲、ウイントンの吹くフレーズのほとんどが新しいものであることに驚かされる。

アート・ペッパー・ミーツ・ザ・リズム・セクション(Contemporary)
生きた人間のプレイを感じさせる事が出来る、逞しいリアリティのある自然な音

 このレコードの録音は1957年1月19日。50年以上の月日が経った今、それでも尚この1枚が挙げられる。このアルバムはあらゆる点で星の数程あるジャズ・アルバムの中で第一級の出来栄えだが、50年前ステレオ・レコードが実用化された年の発売でありながら、今でも優れた録音と言い得る不思議さ!これは自然な音だから。この一言に尽きる。
  倉庫を改造した急ごしらえのコンテンポラリー・レコードのスタジオは、下手に音響設計をごてごてと弄繰り回し金をかけ過ぎたスタジオの持つ、あの不自然な人工的な響きのデッドネスが無い。そしてカルテットのアンサンブルが素晴らしく、不自然なミキシング技術を使う必要が全く無かった事も大切な要素である。従ってマイクロフォンの数も必要最小限度である。ロイ・デュナンのオーソドックスなアコースティックの扱いが、このエバー・グリーンの録音を生んだ。
  伸び伸びとした音の響、リアリティのある芯の強い逞しい音の質感に、50年が経った今でも生きた人間のプレイの躍動を感じる事が出来る。

■ ケルン・コンサート/キース・ジャレット(ECM)
究極の美しいメロディが溢れ出す即興ソロ・ピアノ・パフォーマンス

『ケルン・コンサート』。この日は連絡ミスから予定されていたピアノとは別のピアノが用意されていた。そのためエンジニアはピアノのあらゆる場所にマイクを設置、いかに最高の音を引き出すかに腐心したと言う。クラシックっぽいと感じさせるのは、実は録音の音質のせいでもあった。ケルンのオペラ劇場でライブ・レコーディングされたこのアルバムは、プロデューサーであるECMレコードのマンフレート・アイヒャーの好みもあって、ピアノの残響部分をたっぷりと収録しており、それまでのジャズ・ファンが聴き慣れていた中音域を分厚く録ったブルーノートのピアノの音などとは180度正反対の印象を与えた。
  最初は受身でただ気持ちよく聴いてもらい、少し慣れてきたら自分のほうから彼のピアノに寄り添うようにしてフレーズの一音一音の展開を追って行ってみて頂きたい。そうする事によって、あたかも作曲されている様なロマンチックなメロディ・ラインが、キースの中に生まれ育ち、場合によっては言い澱みながらも展開していく有様を実感として把握出来るはずです。

ジャズ史の概略

■ ジャズの誕生とニューオリンズ
ジャズが生まれたのは、今からおよそ100年前、1900年頃で誕生の地はニューオリンズといわれる。ここはかつてフランスの植民地だった所で、白人と黒人の混血クレオールも多く、背景に広大な綿花畑もひかえていたので黒人労働者も多かった。また港町で歓楽街が栄え、ミュージシャンの仕事も多かった。ジャズはここで演奏されていたブラス・バンドやラグタイム・バンドからアドリブの部分が拡大されていって生まれた。そしてその即興演奏こそが最大の魅力と特色。
また、ジャズの誕生には、その前身の音楽として黒人霊歌ラグタイム、マーチ、ブルース等が存在していた。アフリカから連れて来られた黒人が自分達のフィーリングとリズム感をアメリカ大陸で白人達が持ち込んだ西洋音楽と融合し、生み出した音楽、それがジャズだろう。
初代ジャズ王はバディ・ボールデン(1877〜1933)、二代目ジャズ王はキング・オリヴァー(1885〜1938)で共にコルネット奏者。しかし、真の意味でのジャズをジャズらしくしたのは同じくコルネットとトランペット奏者のルイ・アームストロング。彼は即興演奏の部分を拡大し、自由奔放でホットなプレイによって、ジャズをロマンティックな音楽として発展させ、三代目ジャズ王と呼ばれた。1917年、赤線閉鎖令が出され、ニューオリンズの歓楽街は火が消え始め、ジャズメンは仕事を求めて北上して行く。シカゴやニューヨークでジャズが栄える様になり、ルイ・アームストロングもシカゴ、ニューヨークへと活動の場を拡げていった。

■ シカゴ、ニューヨーク、カンサス・シティ
   シカゴで特にジャズが栄えたのは1920年代、ローリング・トゥエンティ―ズと呼ばれた時代。エディ・コンドンや白人のビックス・バイダーベックが活躍したのもこの時代である。
   1920年代から40年代前半にかけてのニューヨークでは、白人の住む高級住宅街だったハーレムがジャズの中心だった。20年代末にはハーレムにも40数軒もジャズを聴かせる店があったが、最も有名な“コットン・クラブ”に27年から31年まで出演したのがデューク・エリントン楽団だった。彼は黒人性を強く前面に出した自作の名曲で人気を得て、ジャズ界最大の巨人となった。ハーレムのジャズは他の芸能と一緒に育ち、歌を重視した点に魅力と特色があった。エリントンはその代表だった。
   1920年〜33年に発令された禁酒法の間でもカンサス・シティでは悪徳市長の下、酒の自由販売の店を許可していたのでクラブや酒場が栄え、続々とジャズメンが集まり、大きな拠点となっていた。ブルース歌手、ジョー・ターナー、東部出身ながらカンサス・シティに辿り着きベニー・モーテン楽団を引継ぎ、後に全米で大人気を博したカウント・ベイシー等が独自のジャズを作り出していった。

■ スウィング
   1929年にニューヨークの株価が大暴落し、世界大恐慌が起こり、1930年代のアメリカは不況の波に襲われ、仕事を求めてヨーロッパへ渡ったジャズメンも少なくない。不景気で暗い世の中では、ハッピーな音楽が受ける。陽気な音色のクラリネット奏者ベニー・グッドマンは34年にバンドを結成し、NBCラジオの番組『レッツ・ダンス』に出演すると、社交ダンスの流行と結びついてたちまち人気バンドとなった。この軽快でダンサブルな演奏は、従来のジャズとは一線を画すると言う事で“スウィング”と名付けられた。ベニーを追って白人のスウィング・バンドが次々に誕生して人気を競った。アーティ・ショウ、トミー・ドーシー、グレン・ミラー楽団等は特に人気があり、30年代後半はスウィング一色となった。スウィング時代はビッグ・バンドによる編曲の面白さとコンボによる即興演奏の妙味が生かされ、ジャズが大衆に支持され映画並みの人気を得た。ジャズの第一期黄金時代だった。

■ モダン・ジャズ
   1940年代を迎えると、若い意欲的な黒人達はダンス音楽の“スウィング”に飽き足らず、ハーレム       
  に開店したジャズ・クラブ“ミントンズ・プレイハウス”等に仕事の終った深夜に集ってジャム・セッションを繰り返し、新しいジャズの創造に向かった。その中心的なミュージシャンには、カンサス・シティから来たチャーリー・パーカー(as)、テキサス出身のチャーリー・クリスチャン(g)、ディジー・ガレスピー(tp)、セロニアス・モンク(p)、ケニー・クラーク(ds)等がいた。この新しいビ・バップでは、アブストラクトなテーマやアドリブがみられ、まるでモダン・アートの様であり、バップ時代に今日のコンボ編成、トランペット、サックスに3リズムという定型もこの時期に出来上がった。またビ・バップはスタン・ケントンやウディ・ハーマンらのビッグ・バンドにも影響を与えて、プログレッシヴ・ジャズを生んだ。
   ビ・バップの後一時、40年代末から50年代の初めにはスタン・ゲッツリー・コニッツジョージ・シアリング等主として白人主導のクール・ジャズが生まれ、一時マイルス・デイヴィスも加わったが、これは52年以降のウエスト・コースト・ジャズへと繋がり、ジェリー・マリガン、ショーティ・ロジャーズ、シェリー・マン等のスターを生み、編曲の妙味を聴かせたが、ハード・バップの台頭でモダン・ジャズの主導権は又黒人の手に戻った。
   54〜65年頃迄がハード・バップの全盛期で、ジャズの第二の黄金期。クリフォード・ブラウンマックス・ローチアート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズホレス・シルヴァーソニー・ロリンズキャノンボール・アダレイ等のビッグ・スターが華やかに活躍し、プレステッジ、ルヴァーサイド、ブルーノート、サヴォイといったモダン・ジャズ専門のレーベルが次々にハード・バップの録音を行ったのもこの時代。黒人ジャズ花盛りの印象を受けた。
   クール・ジャズ以降、常にモダン・ジャズの中心にいたミュージシャンがいた。それがマイルス・デイヴィスだ。彼は50年代の終わり頃から白人の作・編曲者ギル・エヴァンスと組んで、アドリブの自由化を目指してジャズにモード手法を導入した。コード進行を単純化し、パーカーのコード転回重視の演奏とは違った方向を示した。このマイルスの行き方には、ジョン・コルトレーンも賛同し、さらにハービー・ハンコックウェイン・ショーター等もモード手法を取り入れ、60年代には新主流派が生まれた。

■ 前衛ジャズからフュージョンへ、そして伝統継承派へ
   1960年代のアメリカは激動の時代で、黒人解放運動も激化し、指導者、キング牧師マルコムX等が黒人の支持を得たが、これに呼応するかの様に黒人ジャズの一部は前衛化し、オーネット・コールマンエリック・ドルフィー、アーチー・シェイプ、アルバート・アイラー等の前衛派が注目され、コルトレーンもこれに同調した。しかし、黒人指導者二人の暗殺で黒人解放運動も一息つき初め、さらにドルフィーコルトレーン、アイラーの死もありとジャズの先鋭化にも歯止めがかかった。
   60年代末からはポップス界でロックが台頭し、やがてエレクトリック・サウンドが音楽界を席巻する様になる。ジャズ界でもロック・ビート、電気、電子サウンドを導入したフュージョンが現われ、70年代にはウェザー・リポートリターン・トゥ・フォーエヴァークインシー・ジョーンズ、それにマイルスも加わり、ハービー・ハンコックも変身してジャズ・フュージョンの時代を迎えた。アドリブではなく、集団による表現がサウンドの根幹になっている。
   しかし、80年代に入ってウィントン・マルサリスの加わったジャズ・メッセンジャーズが再度人気を得てから、ハード・バップの伝統を受け継ぐモダン・ジャズに若いジャズメンが参加し、90年代にかけては伝統継承の時代となった。
   加えて、このところアフロ・キューバン・ジャズの躍動的なリズムの楽しさと生命力が見直され、ラテン系のミュージシャンがラテン・リズムを導入したりしてジャズの活性化に一役買っている事も確かだ。
                                        ―完―