= JAZZ MEN BIG 10 = 「ジャズ史のなかの巨人たち」

サッチモことルイ・アームストロングはキング・オブ・ジャズと呼ばれたトランペット奏者。歌手、役者としても成功した偉大なエンターティナーだ。デューク・エリントン楽団とカウント・ベイシー楽団は黒人の二大ビッグ・バンドとして君臨。デューク・エリントンは幾多の名曲を書きカウント・ベイシーはカンサス・ジャズの伝統を生かした。ベニー・グッドマンクラリネットの名手で30年代の後半以降キング・オブ・スイングと呼ばれて大衆の人気を得てきた。マイルス・デイヴィスはバップに始まりクール・ジャズ、ハード・バップ、フュージョンと常に時代をリードする革命家であった。ソニー・ロリンズジョン・コルトレーンはよきライバルとして50年代から60年代にかけてモダン・テナー奏者として活躍した。ジョン・コルトレーンは精神的に富む演奏を行った。
 チャールス・ミンガスはデューク・エリントンの音楽をコンボに適用して作曲と即興演奏を両立させた。オスカー・ピーターソンはカナダ出身の黒人ピアニスト。スインギーなモダンジャズ・ピアノ・トリオの確立者。ビル・エヴァンスは白人ジャズの可能性を広げたリリカルでファンタスティックなピアニストであった。ベース奏者スコット・ラファロとのインタープレイが人気を呼んだ。
ここではジャズ史の中で私の選んだ10人のジャイアンツをジャズ・マスター・ディプロマ“Dr.NAKAJIMA”ならではの視点から、当時のエピソードやあまり表に出ないバイオグラフィーを交え、紹介する。

ルイ・アームストロング

 歌詞を忘れてとっさにスキャットでごまかして無事吹き込みを終えたのが〈ヒービー・ジー・ビー〉でこれがジャズ・スキャットのはじまりとなった。サッチモにはユーモアの感覚があり、芸達者のところがある。
 彼はジャズが生んだ最初の巨星であり、1931年に故郷ニューオリンズに錦を飾った時帰郷列車には数百人のファンが詰めかけ、歓迎パレードは街から街へと長い列ができ、“ようこそ故郷へルイ・アームストロング――パーディド通りの王様”という垂れ幕が下がった。正しくルイはニューオリンズが生んだ英雄といえる。
サッチモはグッドマンと並んでジャズ界では最もポピュラーな散在である。彼は雑誌“タイム”の1949年2月2日号でその表紙を飾った。ジャズメンが“タイム”の表紙になったのはこれが初めての事であり、ルイの人気とポピュラリティがわかる。さらに1966年4月15日には雑誌“ライフ”がルイのカバー・ストーリーを掲載した。またCBSTVは1957年に“サッチモ・ザ・グレイト”という一時間もののルイを主役にした番組を放映したが、その後この企画はレコードにもなった。彼は1970年に誕生70年を記念するアルバム「ルイ・アームストロング・アンド・フレンズ」というアルバムを吹き込んだが、このセッションにはボビー・ハケット、エディ・コンドン、ルビー・ブラフ、オーネット・コールマンらも顔を見せ、皆で〈勝利を我等に〉〈平和を我等に〉を合唱したりした。ルイはエンターティナーではあったが、人種差別に反対する姿勢を強く示す人でもあり、こういったフォーク・ソングを歌う必然性も大いにあった。この誕生祝の録音には夫人もつきっきりだった。夫人はルシール“シュガー・ベイビー・ウイルスン”といい4度目の奥さんで二人の結婚は25年以上に達していた。
彼女は美人でコットン・クラブのコーラス・ガールの出身だった。
カウント・ベイシー

 ある記者がベイシーに意地の悪い質問をした。「一聴衆として聞いた場合、あなたが一番スリルを覚えたベイシー・バンドの演奏は?」しばらく考えていたベイシーは「うーん、それは大分前だが、1951年のある晩の演奏は凄かったな。指揮していてもいささか興奮したよ」
 ちなみにその頃のバンドにはジョー・ニューマン、ベニー・パウエル、マーシャル・ロイアル、アーニー・ロイアル、エディ・デイビス、ポール・クインシェット、チャーリー・フォークス、ガス・ジョンスンといった名手がいた。
 普通ジャズのビッグ・バンドはコンサート用とダンス用の2種類の譜面を持っているのだが、ベイシーだけは一種類しか持っていない。あるコンサートで一緒になったビッグ・バンドのリーダーが「ベイシーさん、今夜は晴れの舞台だし、何か特別の曲を演奏するんでしょう?」と聞くと、彼は「なあにいつもと同じ古いビーフ・シチューよ」と答えたという。どこでもいつでも同じ曲を同じ様に演奏するのがベイシー楽団の特徴であり、魅力でもある。それというのも強烈な4ビートをもっていて、ジャズ・ナンバーでちゃんと踊れるからだ。従って、ベイシーはバンドを作る場合、先ずリズム・セクションから組み立て、次いでサックス・セクションの人選を行い、次いで残りの人選に入るという。
彼はバンドが持つ生命の鼓動はリズム・セクションによって決まるという持論を持っているからだ。
 ところで、ベイシーは1942年にジミー・ランスフォード楽団でちょっと歌ったことのある歌手キャスリン・モーガンと結婚した。二人の間には一人娘のダイアンがいる。ベイシーは家にいてピアノを弾いているか、演奏旅行に出ている時以外は野球を楽しみに出かけるか競馬に出かけるかしていた。
ジョン・コルトレーン

 コルトレーンが新進テナーとして颯爽と登場してきた時、アメリカのジャズ雑誌は“怒れる若きテナー”と呼んだ。コルトレーンの笑った写真等一つもなかったからだ。しかし彼は「皆が僕の音楽は怒りのサウンドだというけれども、僕は自分が思うように吹けなかった時自分自身に対して怒っているだけのことである」とこれを否定している。しかし彼は終生音楽とシリアスに取り組み、音楽と人間の生き方との合致を目指し、日本での記者会見では「聖者になりたい」という有名な言葉を吐いたが、かれはインド哲学に心酔していたので、この場合、聖者とはインドで言うグルの事であろう。彼の代表作として名高い「至上の愛」はコルトレーンが作曲、作詞したものだが、インドの音楽や思想に詳しいジョン・マクラフリンは、「至上の愛」はインド哲学にもとづく作品だと解説している。
 コルトレーンは、死の少し前「僕の人生にレジャーはなかった」と述懐しているが、これは正直な実感だろう。彼は一気に突っ走って40歳でこの世を去った。しかし、彼に親友がいなかったわけではない。一番仲が良かったのは、同じサックス奏者のソニー・ロリンズエリック・ドルフィーだった。
ドルフィーを別にすれば気軽に借金できたのはロリンズだけだった」とコルトレーンは言っている。
が二人は同楽器でもあり、ライバル意識も強かった。それだけにコルトレーンが急死した後、ロリンズは「しばらく気が抜けて放心状態になった」と語っている。
 コルトレーンにレジャーはなかったが女性はいた。最初の夫人ネイマとは精神的な絆で結ばれていたが、アリス・コルトレーンが現われてこの神話は崩れた。63年にアリスと出会い66年に二人は結婚した。しかしアリスに合う少し前コルトレーンには白人の恋人もいた。この白人女性の日記は『コルトレーンの生涯』に引用されているが、名前は明らかにされていない。この白人女性は今もって謎である。
マイルス・デイヴィス

 マイルスは自分のモットーを「常に動き、一箇所に留まらない事だ」と言ってきた。アメリカのダン・モーゲンスターンはかつてマイルスとのインタビューをまとめた時「マイルス・イン・モーション」というタイトルをつけた。つまりマイルスを変貌という視点でとらえたのである。マイルスは「オレたちの音楽は毎月変わるさ」と言い続けてきた。
 マイルスは変化する事、新しいものが好きだったから共演者にも常に新人を起用してきた。55年に5重奏団を結成したとき、ソニー・ロリンズが病気で参加を断ると、新進のジョン・コルトレーンをテナーに起用した。コルトレーンのテナーはユニークだったので、最初ファンや関係者からは「あんな無能な奴は早く首にしろ」と非難轟々だったという。しかしマイルスは「おれはコルトレーンの将来性と可能性を買っているのだ」と言い敢然と使い続けた。コルトレーンは2年も経たない内に実力を発揮してスターとなり、マイルスは世間に対して「ざま見やがれ」と言った。
 エリントンは黒人も白人以上に優雅、高貴になれることをその音楽と立振る舞いで示して黒人のコンプレックスを取り払ってきたが、マイルスは自ら黒人の英雄になることで多くの黒人達に自信を持たせた。そのためにマイルスは音楽的にも人間的にも最高にカッコよくなろうとし、パワーを身に着けようとした。70年代に入るとマイルスはボクシングのジムに通って肉体を鍛えた。楽屋でも気に入らない奴が入ると冗談を言いながらもボクシングのジャブで相手をこずいた。その筋肉の引き締まったマイルスの肉体を見た渡辺貞夫は「ジャズマンはこうでなくては」と感嘆した。
ビル・エヴァンス

 ビル・エヴァンスマイルス・デイヴィスに気に入られていたのに、何故58年にほぼ1年近く在団しただけで辞めてしまったのだろう。その点を聞かれたビルはこう答えている。「マイルスとの共演は最高にスリルがあったがレコーディングのとき、彼は前もってリハーサルなどやらないで、当日ちょっと打ち合わせしただけで別テイクもとらず一発で決めてしまうという録音の方法が怖くなってノイローゼになりそうなので辞めさせてもらったのです」。やはり神経質なビルにはマイルス方式は合わなかったのかも知れない。しかし「マイルスから学んだものは計り知れない程大きいものがあった」とビルは語る。「僕のモード手法を用いたバラッド演奏はマイルスから学んだもので、テンポの自由な変化、ビートとノー・ビートの部分の自由な組み合わせの効果はマイルスが教えてくれたものである」とも言っている。逆にマイルスもビルの感性から学ぶものは多かったとビルを賛えている。
 ビルは1980年9月14日にニューヨークのクラブ“ファット・チューズディ”に出演中倒れ、翌15日に急死してファンを悲しませたが、クラブがビルの代役に起用したのは第二のビル・エヴァンスと呼ばれている新進白人ピアニストのアンディ・ラバーンであった。
 考えてみればビル・エヴァンスには60年代以降死の影につきまとわれていたとも言える。しかし、そこから生まれる悲哀と哀愁感がビルの魅力でもあったとも言える。61年7月には最高の相手役だったベースのスコット・ラファロを自動車事故で失い、60年代末には父を病で失ったが、父の死は〈イン・メモリー・オブ・ヒズ・ファーザー〉という美しい自作のピアノ・ソロ演奏を生んだ。また数十年前には夫人を自動車事故で失くし、79年には兄が自殺した。兄の死を悼んで演奏したのが〈ウィ・ウィル・ミート・アゲイン〉だった。過去の身辺の死を全て克服してプレイを続けて来たビルも自己の運命には勝てなかった。
デューク・エリントン

 デュークは1974年に亡くなったが、彼の音楽は今も生きている。スティービー・ワンダーはデュークを賛える曲〈サー・デューク〉を作曲し、マイルス・デイヴィスも休養直前に2枚組「ゲット・アップ・ウィズ・イット」をデュークに捧げ、我々は皆朝晩デュークに感謝の気持ちを表明すべきだと言った。フュージョンウェザー・リポートまでデュークの作品〈ロッキン・イン・リズム〉を演奏して甦らせた。
 デュークの人気は1930年代から大変なもので、30年代に南部各地に巡演した時は、バス・ツアーではなくて、2両仕立ての列車で廻るという人も羨む贅沢さで、毎日汽車の中で飲んだり食べたりパーティを開いたりしながら各地を巡演したので、世間の人達は「あれはまるで大統領の旅行みたいだ」と羨ましがったものである。
 デュークは作曲に関しては早書きの天才であった。ミュージカル・ショウを一晩で書いた事もあるし、かの有名な大作〈ブラック・アンド・タン・ファンタジー〉は1927年になんとタクシーの中で作曲したのだという。何でも前の晩ホテルでドンチャン騒ぎをして朝9時からの録音に作曲が間に合わなくなったからである。また名曲〈ムード・インディゴ〉は母親が作ってくれる料理を待っていた15分間で書き上げたし、〈ソリチュード〉は他のバンド録音が終るのをガラス越しに待っていた間に立ったままで書き上げたのである。ビリー・ストレイホーンはデュークの片腕以上の存在で、二人の共作は40年代以降一気に増えた。「ビリーのいないエリントンは林檎抜きのアップル・パイみたいなものだ」とデュークはビリーを信頼していた。
ベニー・グッドマン

 ベニーはロシア系のユダヤ人である。従ってジギー・エルマン、ジーン・クルーパ、スタン・ゲッツ等多くのユダヤ系ミュージシャンが去来し、〈素敵な貴方〉や〈天使は歌う〉といったユダヤ系音楽をさかんに演奏した。その代わりユダヤ人なので黒人に対する偏見もなく、チャーリー・クリスチャン、クーティ・ウィリアムス、フレッチャー・ヘンダーソン、ウォーデル・グレイら多くの黒人達と一緒に仕事をした。キング・オブ・スイングと呼ばれたベニーは巨大な富を築き、広い牧場をもち悠々自適の生活を送っていたが、自分の音楽的長寿の秘訣は余裕のある生活のたまものだと言っていた。
自分のペースを崩さない生活態度は立派なものだった。
 ベニーは1973年にライオネル・ハンプトンジーン・クルーパー、テディ・ウイルソンというオリジナル・カルテットを組んでなんと35年ぶりにカーネギー・ホールに出演したが、このコンサートは早くからチケットが売り切れ、ステージの後ろにまで椅子が並べられ、超満員の演奏となった。ベニーもさすがに35年ぶりのカーネギー・ホール出演とあって、「ここに35年ぶりにオリジナル・メンバーで出演できたのは本当に幸せだ」と挨拶すると、70歳を超える夫人の間からすすり泣きの声さえもれてきたし、多くの人がハンカチで目頭を押さえていた。70歳以上の観衆の中には35年前の1938年に行われた、かの有名なカーネギー・ホール・コンサートを聴いた人も沢山いたのである。しかもオリジナル・カルテットの演奏はこれが最後になったのだ。翌74年にジーン・クルーパーが白血病で亡くなったからだ。
 近年ニュー・スイングの台頭がみられるが、この中心人物スコット・ハミルトン、ウォーレン・ヴァシエ、カル・コリンズ、ジョン・バンチらはみんな近年のグッドマン楽団で演奏してきた人達ばかりである。ベニーは今もキング・オブ・スイングなのだ。
□チャールス・ミンガス

 晩年のミンガスは大食漢となり、太った身体を自分の足で支えきれなくなり1977年にエイベリー・フィッシャー・ホールで自分の作品を演奏した時は、立って指揮したのは1曲だけで、後は椅子に座ってベースを弾いただけであった。一時ミンガス・グループのピアニストだったことのある秋吉敏子が「ミンガスって洗面器で食事するのよ」とその大食ぶりに呆れていたことがあるが、2度目に来日した時も、フル・コースのディナーを食べた後、大きな西瓜を1個一人で平らげて関係者をびっくりさせたという。
 しかし、巨体の割にはミンガスは気が小さかったのでも有名で、一番尊敬していたデューク・エリントンと「マネー・ジャンクル」の録音で共演したときは、緊張で足がガタガタ震えて、しばらくはまともにベースが弾けなかったといわれる。彼はまた気が短くて怒りっぽく、クラブに出演した時等場内がざわついていると、マイクでお客に説教したり喧嘩をふっかけたりしたものだが、メンバーだったジミー・ネッパーを殴って顎を傷つけて訴えられたり、武勇伝にはこと欠かなかった。一時は自分の演奏を勝手に編集するといって怒り、全てのレコード会社と喧嘩し、自費出版していた事もある。
 ミンガスは50年代の中期以降ジャズ界をリードする存在となり、巨匠と呼ばれるようになったが、黒人ジャズが不況となった1951年には仕事がなくなりジャズに見切りをつけ、郵便局員に転職してしまった。ところが51年の暮れに近所まで来たからとチャーリー・パーカーから電話があって、近所のレストランで久々にパーカーに会うと「君の曲はとてもいいよ」と賛められて勇気が湧き、ミンガスはジャズ界に復帰する決心をしたのである。このパーカーからの運命の呼び出し電話にちなんでミンガスが作曲した曲が〈バード・コールズ〉であり、パーカーを拳銃さばきの名手にたとえた〈ガンスリンギング・バード〉というユーモラスな曲もミンガスは作曲している。
オスカー・ピーターソン

 J.A.T.P.のプロモーターだったノーマン・グランツは1949年にモントリオールからタクシーに乗って空港に向かう途中、ラジオから流れてきた鮮やかなジャズ・ピアノに魅せられ、わざわざ市内に引き返してクラブまで演奏を聴きに行った。そのピアニストがピーターソンでグランツは強引にアメリカに連れて来た。この年の9月ピーターソンはニューヨークのカーネギー・ホールでコンサートを開いた。カナダからグランツが凄いピアニストを連れて来たから、ひとつ冷やかしに行こうとニューヨークのミュージシャンもかなり詰めかけた。最初はやじったり、場内もざわついていたが、その内水を打ったように静かになった。そして終って出てきたミュージシャンの顔を見ると、みんな真っ青だったという。みんなピーターソンの完璧なテクニックと圧倒的なスイング感とダイナミックなプレイに度肝を抜かれたのである。
 50年にはグランツのJ.A.T.P.に加わって世界を巡演、51年以降トリオも組んで活動した。彼がユニークなスタイリストでありえたのは黒人でありながらカナダというアメリカから隔離された国でピアニストとして育ちバド・パウエルの影響をまともに受けず、アート・テイタムナット・キング・コールを手本にしてきたからだ。彼はカナダの他の芸術家同様アメリカに進出して名声を得たが、カナダに対する郷土愛は人一倍強く、今も妻とトロントの湖畔の家に住み、オンタリオ湖の傍には別荘も持っている。このカナダへの愛着を音で表わしたのがカナダの美しい風物を素材にして作曲し、ピアノ・トリオで演奏した「カナダ組曲」であった。
 ピーターソンはまた批評家嫌いといおうか批評家をあまり信用しない。彼はかつて「批評家とミュージシャンが一緒にレコードを聴けば解るが、批評家は音楽の肝心な点を聴き逃す場合が多い」と発言したことがある。
ソニー・ロリンズ

 1981年1月に来日したロリンズはまことに上機嫌ではしゃぎすぎと思えるほど次から次へと吹きまくって聴衆を興奮させたが、必殺の4バース・チェンジでついには若手ドラマーのアル・フォスターまでダウンさせ、打楽器奏者が助け舟を出すほどであった。ロリンズの上機嫌とエネルギーに溢れたプレイは前年夏の総入歯がうまくいったからだろうと、もっぱらの噂であった。
 ロリンズはかつては強度のそううつ病で過去3度も雲隠れしているが、最初の雲隠れの時は、マックス・ローチがシカゴで探し当てた時、ビルの清掃人になっていたという。ブラウン=ローチ5重奏団のテナー、ハロルド・ランドが父親の急病で帰郷してしまった時、ローチは困って引退中の親友ロリンズにシカゴ公演だけでも付き合ってくれと頼み込んだのである。ロリンズは気は進まなかったが、ローチのたっての頼みとあっては断わり切れずに一週間のシカゴ公演への参加だけを約束したのだった。ところがロリンズは一緒に演奏してみて驚いた。クリフォード・ブラウンのあまりの素晴らしさに圧倒されてしまったのである。ロリンズは人間嫌いになって引っ込んでいたのだが、「この世にはまだブラウンの様な温かい純真で率直な心を持ったジャズマンがいるのか。彼と共演できるならもう一度ジャズを演奏したい」と言ってロリンズはそのままブラウン=ローチ・コンボの正式メンバーとなり、ジャズ界に復帰したのである。
 ロリンズが3度目の雲隠れからジャズ界にカムバックしたのは1972年の事だった。復帰するとすぐニューヨークのヴィレッジ・ゲートに出演したが、一週間の出演期間中毎晩リズム・セクションを変えたという。彼はおおらかな反面神経質なところもあるのだ。長くロリンズと共演した増尾好秋は「彼はプレイの上で、ああしろ、こうしろと注文はつけないが、気に入らないとすぐ首にしてしまうから怖い。僕は2年も一緒に共演できたのだから気に入られていたんでしょうね」と語っている。