ジャズ史の概略

■ ジャズの誕生とニューオリンズ
ジャズが生まれたのは、今からおよそ100年前、1900年頃で誕生の地はニューオリンズといわれる。ここはかつてフランスの植民地だった所で、白人と黒人の混血クレオールも多く、背景に広大な綿花畑もひかえていたので黒人労働者も多かった。また港町で歓楽街が栄え、ミュージシャンの仕事も多かった。ジャズはここで演奏されていたブラス・バンドやラグタイム・バンドからアドリブの部分が拡大されていって生まれた。そしてその即興演奏こそが最大の魅力と特色。
また、ジャズの誕生には、その前身の音楽として黒人霊歌ラグタイム、マーチ、ブルース等が存在していた。アフリカから連れて来られた黒人が自分達のフィーリングとリズム感をアメリカ大陸で白人達が持ち込んだ西洋音楽と融合し、生み出した音楽、それがジャズだろう。
初代ジャズ王はバディ・ボールデン(1877〜1933)、二代目ジャズ王はキング・オリヴァー(1885〜1938)で共にコルネット奏者。しかし、真の意味でのジャズをジャズらしくしたのは同じくコルネットとトランペット奏者のルイ・アームストロング。彼は即興演奏の部分を拡大し、自由奔放でホットなプレイによって、ジャズをロマンティックな音楽として発展させ、三代目ジャズ王と呼ばれた。1917年、赤線閉鎖令が出され、ニューオリンズの歓楽街は火が消え始め、ジャズメンは仕事を求めて北上して行く。シカゴやニューヨークでジャズが栄える様になり、ルイ・アームストロングもシカゴ、ニューヨークへと活動の場を拡げていった。

■ シカゴ、ニューヨーク、カンサス・シティ
   シカゴで特にジャズが栄えたのは1920年代、ローリング・トゥエンティ―ズと呼ばれた時代。エディ・コンドンや白人のビックス・バイダーベックが活躍したのもこの時代である。
   1920年代から40年代前半にかけてのニューヨークでは、白人の住む高級住宅街だったハーレムがジャズの中心だった。20年代末にはハーレムにも40数軒もジャズを聴かせる店があったが、最も有名な“コットン・クラブ”に27年から31年まで出演したのがデューク・エリントン楽団だった。彼は黒人性を強く前面に出した自作の名曲で人気を得て、ジャズ界最大の巨人となった。ハーレムのジャズは他の芸能と一緒に育ち、歌を重視した点に魅力と特色があった。エリントンはその代表だった。
   1920年〜33年に発令された禁酒法の間でもカンサス・シティでは悪徳市長の下、酒の自由販売の店を許可していたのでクラブや酒場が栄え、続々とジャズメンが集まり、大きな拠点となっていた。ブルース歌手、ジョー・ターナー、東部出身ながらカンサス・シティに辿り着きベニー・モーテン楽団を引継ぎ、後に全米で大人気を博したカウント・ベイシー等が独自のジャズを作り出していった。

■ スウィング
   1929年にニューヨークの株価が大暴落し、世界大恐慌が起こり、1930年代のアメリカは不況の波に襲われ、仕事を求めてヨーロッパへ渡ったジャズメンも少なくない。不景気で暗い世の中では、ハッピーな音楽が受ける。陽気な音色のクラリネット奏者ベニー・グッドマンは34年にバンドを結成し、NBCラジオの番組『レッツ・ダンス』に出演すると、社交ダンスの流行と結びついてたちまち人気バンドとなった。この軽快でダンサブルな演奏は、従来のジャズとは一線を画すると言う事で“スウィング”と名付けられた。ベニーを追って白人のスウィング・バンドが次々に誕生して人気を競った。アーティ・ショウ、トミー・ドーシー、グレン・ミラー楽団等は特に人気があり、30年代後半はスウィング一色となった。スウィング時代はビッグ・バンドによる編曲の面白さとコンボによる即興演奏の妙味が生かされ、ジャズが大衆に支持され映画並みの人気を得た。ジャズの第一期黄金時代だった。

■ モダン・ジャズ
   1940年代を迎えると、若い意欲的な黒人達はダンス音楽の“スウィング”に飽き足らず、ハーレム       
  に開店したジャズ・クラブ“ミントンズ・プレイハウス”等に仕事の終った深夜に集ってジャム・セッションを繰り返し、新しいジャズの創造に向かった。その中心的なミュージシャンには、カンサス・シティから来たチャーリー・パーカー(as)、テキサス出身のチャーリー・クリスチャン(g)、ディジー・ガレスピー(tp)、セロニアス・モンク(p)、ケニー・クラーク(ds)等がいた。この新しいビ・バップでは、アブストラクトなテーマやアドリブがみられ、まるでモダン・アートの様であり、バップ時代に今日のコンボ編成、トランペット、サックスに3リズムという定型もこの時期に出来上がった。またビ・バップはスタン・ケントンやウディ・ハーマンらのビッグ・バンドにも影響を与えて、プログレッシヴ・ジャズを生んだ。
   ビ・バップの後一時、40年代末から50年代の初めにはスタン・ゲッツリー・コニッツジョージ・シアリング等主として白人主導のクール・ジャズが生まれ、一時マイルス・デイヴィスも加わったが、これは52年以降のウエスト・コースト・ジャズへと繋がり、ジェリー・マリガン、ショーティ・ロジャーズ、シェリー・マン等のスターを生み、編曲の妙味を聴かせたが、ハード・バップの台頭でモダン・ジャズの主導権は又黒人の手に戻った。
   54〜65年頃迄がハード・バップの全盛期で、ジャズの第二の黄金期。クリフォード・ブラウンマックス・ローチアート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズホレス・シルヴァーソニー・ロリンズキャノンボール・アダレイ等のビッグ・スターが華やかに活躍し、プレステッジ、ルヴァーサイド、ブルーノート、サヴォイといったモダン・ジャズ専門のレーベルが次々にハード・バップの録音を行ったのもこの時代。黒人ジャズ花盛りの印象を受けた。
   クール・ジャズ以降、常にモダン・ジャズの中心にいたミュージシャンがいた。それがマイルス・デイヴィスだ。彼は50年代の終わり頃から白人の作・編曲者ギル・エヴァンスと組んで、アドリブの自由化を目指してジャズにモード手法を導入した。コード進行を単純化し、パーカーのコード転回重視の演奏とは違った方向を示した。このマイルスの行き方には、ジョン・コルトレーンも賛同し、さらにハービー・ハンコックウェイン・ショーター等もモード手法を取り入れ、60年代には新主流派が生まれた。

■ 前衛ジャズからフュージョンへ、そして伝統継承派へ
   1960年代のアメリカは激動の時代で、黒人解放運動も激化し、指導者、キング牧師マルコムX等が黒人の支持を得たが、これに呼応するかの様に黒人ジャズの一部は前衛化し、オーネット・コールマンエリック・ドルフィー、アーチー・シェイプ、アルバート・アイラー等の前衛派が注目され、コルトレーンもこれに同調した。しかし、黒人指導者二人の暗殺で黒人解放運動も一息つき初め、さらにドルフィーコルトレーン、アイラーの死もありとジャズの先鋭化にも歯止めがかかった。
   60年代末からはポップス界でロックが台頭し、やがてエレクトリック・サウンドが音楽界を席巻する様になる。ジャズ界でもロック・ビート、電気、電子サウンドを導入したフュージョンが現われ、70年代にはウェザー・リポートリターン・トゥ・フォーエヴァークインシー・ジョーンズ、それにマイルスも加わり、ハービー・ハンコックも変身してジャズ・フュージョンの時代を迎えた。アドリブではなく、集団による表現がサウンドの根幹になっている。
   しかし、80年代に入ってウィントン・マルサリスの加わったジャズ・メッセンジャーズが再度人気を得てから、ハード・バップの伝統を受け継ぐモダン・ジャズに若いジャズメンが参加し、90年代にかけては伝統継承の時代となった。
   加えて、このところアフロ・キューバン・ジャズの躍動的なリズムの楽しさと生命力が見直され、ラテン系のミュージシャンがラテン・リズムを導入したりしてジャズの活性化に一役買っている事も確かだ。
                                        ―完―