新しいジャズの歴史へ

 アメリカが生み出した独自の音楽“ジャズ”は19世紀の末に、北米大陸の南部、とりわけニューオリンズを中心にした地域で誕生したというのが、定説になっている。ただ、1917年まで、ジャズのレコードは1枚も録音されていないので、いつどこで、誰が創造したかについては正確な資料は残っていない。ただし、いくつかのバンド、何人かのプレイヤーがほとんど同時に、今日ジャズと呼ばれる音楽にごく近い演奏を行っていた事は確かだろう。
 このジャズの誕生には、1619年以降に北米大陸に奴隷として連れて来られた黒人のフィーリング、音感、リズム感、人間性が深く関わっている事は確かだが、アフリカから黒人の音楽がそのままジャズに発展した訳ではなく、ヨーロッパ各地からアメリカに移住してきた多彩な民族が持ち込んだ西洋音楽や各国の民族音楽等が、融け合い、ぶつかり合って生まれた音楽である。従って、ジャズはある特定の人種の民族音楽でもなければ民俗音楽でもなく、生まれた時からフュージョン・ミュージックであった。
 ジャズ誕生への道を開く下地の音楽となったのは、19世紀以前のアメリカ民謡や作曲、黒人霊歌、ワーク・ソング等だが、ジャズの前進とも言うべき重要な音楽には、ミンストレル、アフリカの黒人音楽、ブルース、ラグタイム、ブラス・バンドが挙げられる。特に南北戦争以降の1890年代の黒人ブラス・バンド、ニューオリンズのダンス・ホール等で演奏されていたストリングス入りのダンサブルなラグ・タイム・オーケストラ等は、ジャズにごく近い演奏を行っていたものと思われる。19世紀末の初代ジャズ王バディ・ボールデン(cor)のバンドは、バンク・ジョンソンらの証言によると、既にジャズと呼ぶべき即興演奏を行っていた様だ。
 ニューオリンズでは、フランス人と黒人の混血によるクレオールの中にもジャズを演奏した人達が沢山いて、ジェリー・ロール・モートンシドニー・ぺシュ等はその代表的存在。クレオールは黒人よりも早く一時的に自由を獲得し、彼らの中には高い音楽教育を受けたミュージシャンも少なくなく、西洋音楽と同じ楽譜を読むプレイヤーも増えていった。ジャズは、世界の広範囲における共通語とも言うべき、西洋音楽の楽譜を用いる様になった事で、一気に世界に広まっていったと言える。
 こうしてクレオールや白人が大きく関わり、発展していったジャズは、20年代以降、シカゴやニューヨークで盛んに演奏されるようになると、白人の中でも特に優れた資質を持っていたユダヤ人がジャズに興味を持ち初める。彼らは積極的にジャズやポピュラー音楽に参加するようになった。20年代から活躍したポール・ホワイトマン、アル・ジョンソン等を初め、所謂ティン・パン・アレーで、楽譜を売る事が出来る様になったポピュラー・ミュージックやミュージカルの作詞・作曲家達はその殆どがユダヤ人であった。ジェローム・カーンアーヴィング・バーリン、ジョージ・ガーシュインリチャード・ロジャース、ハロルド・アーレン、ハリー・ウォーレン、ヴァーノン・デューク、そして今日のサイ・コールマン、スティーブン・ソンドハイム、ジェリー・ハーマン等がそうであり、例外的な大物作曲家はコール・ポーター等少数しかいない。そして、このユダヤ人達が作った曲であるスタンダード・ナンバーが今日なおジャズの大きな素材となっている。約10年程前、JVCジャズ祭ニューヨークで、このジャズ祭のユダヤ人プロデューサー、ジョージ・ウィンは“ジャズにおける黒人とユダヤ人の共闘”と言う興味深いプログラムを設けていた。
 ジャズ史に於いて特筆されるべき事は、差別されてきた黒人ジャズメンと、やはり迫害、差別されてきたユダヤ人が共に闘って、ジャズを育て、発展させてきたと言う点だろう。

 スウィング王と呼ばれたユダヤ人のベニー・グッドマンは、ステージの上で初めて白人と黒人の共演を実現させたし、同じユダヤ人のクラリネット奏者アーティ・ショウも短期間だが、黒人ビリー・ホリデイを専属歌手に迎え入れた。アメリカのジャズ界では白人でジャズを演奏している人達には、ユダヤ系とイタリア系が多く、ユダヤ系の名手には、ウディ・ハーマンスタン・ゲッツギル・エヴァンス、ハリー・ジェイムス、ハービー・マン、シェリー・マン等がいて、イタリア系にはジョー・ヴェヌーティ、ヴィド・ムッソ、バディ・デフランコトニー・スコットアート・ペッパー、ジョー・ロヴァーノ等がいるが、所謂WASP系はグレン・ミラー等以外に少ない。ビング・クロスビーフィル・ウッズジェリー・マリガン等はアイリッシュ系である。しかし、今日ジャズは世界の多くの国、多くの民族によって好まれ、演奏されていて、西洋音楽の浸透している国程ジャズが栄えている。日本もその例に漏れない。余りにも民族音楽の強い国にはジャズが浸透しにくい傾向があるが・・・
 ジャズ演奏は黒人達の心と精神を解放する役目を果たしていた様に思える。ジャズ同様黒人達が歌い演奏するブルースが、多くは一人で、個人の悩みや悲しみを歌ったものであったのに対し、ジャズの多くは複数で、魂や心を一つにして、自分達への差別や偏見に対する怒りや反発を楽器に込めて演奏した面があった。そしてアドリブの中に、実生活では得られない自由を思う存分に発揮、展開していた様に感じられる。
 白人の歓楽街だった初期のハーレムでは道化の姿を見せたり、白人に媚びたりしている様に思えるジャズや黒人芸能もあったが、その表面的な姿勢の裏で、黒人特有の遊びや嗜好を隠し味として展開していて、黒人達はふざける事で自由を満喫し、自ら十分に楽しんでいたのではないだろうか。又黒人は自分達が考え出したスラングやジャイブ語によって、白人に抵抗したり反発したりしていた。黒人は白人とは逆の意味を込めて言葉を使った。白人が使うGoodはBadの意味であり、白人が使うBadは黒人にとってはGoodになる。これは、奴隷時代、白人と黒人とは利害が全く逆だった事から来ているのではないだろうか。いくら働いても個人的な利益を得られなかった時代の黒人にとって、働く事はむしろ悪であり、サボる事こそ善であった。従って、今日でもLazyとかLooseとか、力をぬいたり、サボるといった意味の言葉は黒人英語では全て素晴らしいという意味に使われる。黒人のジャズもかつては、ルーズでレイジーであり、それが他の音楽にない魅力であり、ジャズの特質だった。
 しかし、黒人の地位も昔に比べると上がって来ている。かつては、黒人に対する差別や偏見への怒りや反逆が黒人ジャズのアイデンティティになっていたのだが、黒人の地位の向上が、逆に黒人ジャズのアイデンティティを弱めているところがあり、それが今日の黒人のジャズの悩みともなっている。
 新時代の旗手ウィントン・マルサリスは誰よりもこの危機を敏感に感じ取り、かつてのジャズの巨人達のエネルギーを吸収し、ジャズの伝統を継承し、復活させる事でジャズのパワーを再獲得しようと試みている様だ。

 今日、彼がリンカーン・センター・オーケストラを率いて、盛んにルイ・アームストロングジェリー・ロール・モートンデューク・エリントンといった過去の巨人達の曲を演奏しているのは、そのためと言えよう。彼が作曲演奏した黒人史、ジャズ史を綴った大作『ブラッド・オン・フィールズ』(CSB)はピューリッツァー賞を受賞した。これによって、ジャズがさらに社会的に正当に認識される時代が来た事は明らかになったが、ジャズにおける業績から言えば50年程前にデューク・エリントンこそ最先に受賞すべきだったと言える。エリントンの音楽には、ジャズの過去、現在、未来の全てがあると言っても過言ではない。それで慌ててエリントンにもピューリッツァー賞が与えられたが、いささか証文の出し遅れの感があると思われる。
 ウィントン・マルサリスは現在ニューヨークの“ジャズ・アット・リンカーン・センター”の総合プロデューサーとして、絶大なパワーを発揮し、2004年10月にはこの団体はコロンバス・サークルに新築されたタイム・ワーナー・ビルに移り、この中にはジャズ専用の大ホール、中ホール、リハーサル室、ジャズ・クラブ“デイジーズ・クラブ”が出来、一大ジャズの殿堂が完成しニューヨークの名物となっているが、これでジャズのかかえる悩みが解決されると言う訳にはいかない。
 ウィントン・マルサリスリンカーン・オーケストラは前述した過去の巨人達の音楽をオーケストラで再現する試みを行っているが、ジャズはクラシックと異なり過去の譜面やアドリブを再現する事からは、新しい意味は見出せないと思う。例えば、エリントンの音楽は、その当時彼が自楽団の名ソロイストのアドリブを想定し、その人のアドリブを引き出すために書いた曲が多く、かつてのエリントン楽団の様な個性的な名手の居ないリンカーン・センター・オーケストラでは、エリントン楽団の再現すら不可能である。また、このオーケストラは、余りにも整然としすぎ、しかも真面目すぎて面白味が無い。20年代の“コットン・クラブ”でエリントン楽団が見せた演奏にはもっと遊びとユーモアと奔放さがあったし、その演奏の前ではセクシーでエキサイティングなダンスも展開されていた。エリントン楽団には芸術的な面とエンターテイメントのある芸能的な面とがあり、その遊びの精神こそが魅力でもあった。現在のウィントン楽団の演奏は教育的な意味合いでの価値はあっても、余り芸術的な価値は見出せない。但し、このオーケストラ等を使っての彼の教育者としての活動は大きな成果を上げつつある。
 彼自身も真の創造に向かわなくてはと気づいているのか、最新のブルーノート・レーベルへの第1作『マジック・アワー』ではワン・ホーン編成のカルテットで、自作のエンターテイメント性のある曲を素材にして思いっきりトランペットによるアドリブを繰り広げ、スリルあるジャズを目指し、現代にジャズの生命を蘇らせようと試みている。ウィントンはもともと傑出したアドリブ・プレイヤーであり、コンボ演奏の方がビッグ・バンドより遥かに創造的である。ブルースやブルージーな演奏を主にしているのも、演奏の生命力の回復を目指すプレイとしては正解だと思う。またダイアン・リーヴスボビー・マクファーリンを起用して歌を加えているのも、ジャズのあり方の再検討としては正しいと思う。モダン・ジャズはバップの途中から歌と器楽演奏を切り離してしまったが、これもジャズの間違った方向の一つだったと思う。器楽演奏も歌と離れては魅力の何分の一かを失してしまう。かつてのハーレム・ジャズでは、この二つのものは完全に合体していた。マルサリスはコンボ演奏でジャズの再生を目指すべきだと思う。
 ところで、最近のジャズ・シーンで、キース・ジャレットのスタンダード・トリオの演奏を高く評価する向きもあるようだが、ジャズ・ピアノ・ミュージックの世界で完成度の高い演奏ではあっても、ジャズそのものを動かす存在ではないと思う。ピアニストがジャズの歴史を変えたことは一度も無い。勿論ピアニストがバンド・リーダーだったり、作・編曲者だったりする場合は別だが、ピアニストがピアノのソロイストである限り、ピアノの世界だけに留まってしまうだろう。その変革はピアノの外の世界へは及ばないのではないだろうか。それに今のキースは“スタンダード”に安住しているように思える。賛否両論はあるだろうが、『ケルン・コンサート』(ソロ)の頃のキースは何処へ行ってしまったのだろうか・・・
 その点では、同じピアニストでもハービー・ハンコックへの期待の方が大きい。彼は作・編曲家であり、ピアノ・トリオよりももっと大きいホーンの入ったコンボでの演奏を試みていて、ウェイン・ショーターを加えてグループ活動は今一番質の高い演奏を展開していると言えるし、“東京ジャズ”等で示した音楽総合プロデューサーとしての手腕も高く評価できる。
 それにしても、黒人ジャズメンにとって、昔の様にジャズを演奏する事に対するアイデンティティが失われてきたとすれば、もう我々は黒人の演奏のみに頼る事は出来なくなったと言えるだろう。その結果ジャズの行方はジャズを演奏するヨーロッパ人や日本人に手渡された事になる。愈々我々自身がジャズの在り方を考え、模索しなければならない時代が到来したし、日本のジャズメンも自立しなければならなくなった。
 果たして、今後も胸をときめかせてくれるジャズが存在し続けるだろうか。これは難しい問題で実は私にもよく解らない。ここ数年ヨーロッパのジャズが台頭しているが、50〜60年代における黒人ジャズ程インパクトがあるとは思えない。カンツォーネの国イタリアや情感重視のフランスのジャズに共感するものがあるものの、ブルーノートやプレスティッジ等50〜60年代ジャズの再発売盤の人気に匹敵する支持を得ているとは思えない。
 では、ニューヨークのジャズは今どうなっているのか。ミッドタウンやダウンタウンのジャズ・クラブもかつてのような活気がない。多分に観光客用のクラブとなり、料金も高いので地元のファンはあまり行かないし、演奏もパック化されて、飛び入りも余り無く、ジャム・セッションもなく、サプライズも余り見られなくなったし、12時半とか1時に終る早仕舞いが多くなった。観光客が朝までジャズを聞く事は余り無いからだろう。
アップタウンの“SMOKE”がかろうじて昔流儀のジャズ・クラブの雰囲気を保っている位だ。
 ハーレムのジャズ・クラブには、未だジャム・セッションの日もあり、飛び入りも見られるし、ハモンド・オルガンも聴け、よき時代におけるジャズ・クラブの熱気が感じられる。ハーレムにはよき時代のジャズの残り火がある。現代から過去まで全てのジャズを振り返って聴く時、日本で一番無視されてきたのが、1920~40年代におけるハーレム・ジャズであることに気付く。そしてハーレム・ジャズの一番の特徴と魅力は、ジャズが他の芸能、歌、レビュー、ダンス、ミュージカル、ジャイブ等と共存していた事。そして、ファッツ・ウォーラーデューク・エリントンキャブ・キャロウェイルイ・アームストロングビル・ロビンソンライオネル・ハンプトン、ルイ・ジョーダン、エラ・フィッツジェラルド等皆芸人としての性格を持っていて、彼らは優れたエンターテイナーでもあった。今こそ、ジャズ芸術家をぶっ飛ばす様な型破りのジャズ芸能人に登場してもらいたい。芸能性等一先ず置いて、遊びに徹したジャズこそを望む。近頃日本でも松永貴志矢野沙織、上原ひとみといった深刻でない遊び感覚の若いジャズ・ミュージシャンが飛び出して受けているが、案外聴き手も心の何処かで遊び感覚のジャズを求めているのかも知れない。もともと奴隷から解放された黒人達が“わあ、自由って素敵だ!”と楽器を通して思いっきり自己主張し、遊び心に徹したのがジャズだったのではないだろうか。
 ところで、ジャズ史というと、ニューオリンズ・ジャズに始まり、シカゴ・ジャズ、スウィングやカンサス・シティ・ジャズを経て、モダン・ジャズのバップが起こり、プログレッシブ・ジャズ、ウエスト・コースト・ジャズ、クール・ジャズ、ハード・バップ、フリー・ジャズフュージョンと図式的に流れを記述したものが多い。しかし、これらはジャズ史の表面の流れや流行現象を追ったに過ぎない。50〜60年代のモダン・ジャズと呼ばれた時期にもデキシーやスウィングは厳然と存在し続けたし、一般の民衆にも支持されていた。「」グレン・ミラー物語』『ベニー・グッドマン物語』『ジーン・クルーバー物語』『ビリー・ホリデイ物語』等スウィング時代におけるスター達の伝記映画は皆一般にはモダン・ジャズ時代と呼ばれた50年代半ば近くから60年代にかけて製作された。この時代の一般大衆は大いにスウィングを楽しんでいた。また、ロフト・ジャズやシカゴの前衛派等は実際には泡の様な存在だったに過ぎない。
 マイルス・ディヴィスの『クールの誕生』の影響を受けてウエスト・コースト・ジャズが生まれたと言うジャーナリストがいるが、確かに何曲かジェリー・マリガンがアレンジしていてクールとウエスト・コースト・ジャズのルーツには共通するものはある。そしてこのマリガンやショーティ・ロジャーズ、シェリー・マン等の発想がウエスト・コースト・ジャズを生んだと言う方が正しいと思う。

                                        ―完―