ジャズの“すごさ”を教えてくれたのはライブ・アルバムだった

ずっと長い間、ライブ・アルバムが不憫でならなかった。
誰もが「ジャズはライブが一番!」と言う。ジャズという音楽の特性を考えた場合、確かにその通りかも知れないとは思う。だが、その“一番”であるはずのライブを収録したライブ・アルバムが軽く扱われているのはどう言う訳か。
これが解せない。不憫に思うのである。
錯覚かも知れないが、ライブ・アルバムは、スタジオでレコーディングされたアルバムより“下”に置かれているように見える。中には同等若しくは上位に置かれているライブ・アルバムもあるが、その多くは“ライブ・アルバム”と言う事だけで、中流から下流にかけて集中的に置かれ、なかんずくジャズ・ファンの意識下においては、「だってライブ・アルバムだから」とばかり、ほぼ例外なくスタジオ・レコーディングより“下”にみる傾向があるように思う。
スタジオにおけるレコーディングは「作品」、ライブ・レコーディングは「記録」あるいは「日常」という偏見が、その根底にあるような気がする。さらにジャズ・ファンのアカデミックなものに対する憧れを考えるに、ライブ・アルバムは、あまりにもストレートすぎるのかも知れない。つまり、そこには音楽的な要素以外に知的好奇心を満たしてくれる要素が殆ど無い。
それはライブ・アルバムに対して、あまりに薄情というものだろう。自分がジャズ初心者だった頃を振り返ってみよう。ジャズの右も左も解らない頃、ジャズについて多くのことを身をもって教えてくれたのは、ライブ・アルバムではなかっただろうか。

名盤の威力

一枚のアルバムには、様々な聴き方や楽しみ方がある。だが名盤には、それが無数にあるように思える。そしてそれぞれの名盤の背後には、ほぼ例外なく感動的なドラマが隠されている。ミュージシャンに関するもの、プロデューサーやレコード会社、あるいは演奏や収録曲や録音に関するもの。その意味で、名盤と他のアルバムを画す基準を、そのドラマの質と量に置く事も又不可能では無いかも知れない。
 とは言え最大のドラマが、その音楽である事は言うまでも無い。多くの人々に愛聴され、様々な時代を乗り越え、今なお聴かれている名盤には、想像している以上の“音楽”が詰め込まれている。そしてそれは、聴き尽したと思った瞬間、それまでと全く異なる表情や局面を見せ、新たな音楽として生まれ変わる。当然だろう。歴史に名を残すミュージシャンの歴史的な演奏が安易に聴き尽せるはずもなく、その音楽の中には、聴き手が永遠に辿り着くことのできない領域があるに違いない。従って名盤が聴き手にとって「真の名盤」となるのは、5年10年と時が経過してからかも知れない。そして、それこそが名盤だけが備えている強度であり、威力というものだろう。そう考えれば、ジャズ専門誌等に登場する名盤の多くが十年一日の如く同じようなラインアップになるのは、むしろ当然の事であり、必然とも言える。
 名盤とは、いつ、いかなる時代においても名盤であり、いかなる時代の耳にも通用するものでなければならない。そして事実、名盤として認知されているアルバムは、いつ、いかなる時に聴いても新たな感動を運んでくる。

聴き手の総意が名盤を生む

確かに音楽は個人的な好みが反映されるものかもしれない。だがその「好み」というものは、「耳のレベル」に起因するものであり、よってその音楽とは全く無関係の個人的な問題、つまりは「理解できない」を「嫌い」という言葉に置き換えているに過ぎないとも言える。
 音楽に限らず、評価というものは、人によってさほど大きく変わるものではないだろう。そしてその“評価”の中には、実は“好み”も含まれる。多くの人が評価し、多くの人が好むものは、他の人にとっても同様である確立は高い。味覚や審美眼についても同じ事が言えるだろう。あるいはこう言った方が良いかも知れない。好悪とは、ある一定のレベルに達した時、初めて説得力を持つものであり、それ以前の段階における好悪は、仮に「好き」であったとしても一過性のものに終る可能性が強い。そもそも人の「好き」や「嫌い」程アテにならないものはないとも言える。
 さて、ここにジャズの名盤がある。名盤といっても様々なものがあり、いわゆる歴史的名盤、そのミュージシャンの代表作、ロングセラーやジャズ喫茶の人気盤、さらには「一家に一枚盤」と多岐にわたる。
 これらのアルバムは、どのようにして名盤になりえたのか。具体例を挙げれば、ソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』は何故僅か1ヶ月前に吹き込まれた『テナー・マッドネス』より「名盤」として上位に置かれるのか。演奏の優劣によるものだろうか。それは有り得ない。マスコミに出来る事はあくまでも紹介や提案であり、いくら喧伝したところで、支持されないものは支持されない。
 つまるところ、そのアルバムを「名盤」として認知、格付けし、歴史に残すのは、一人一人の聴き手に他ならない。そして聴き手の総意として選ばれたものが名盤であり、語り継がれ、聴き継がれていくことになる。

「音楽は個人的な好み」のウソ

ジャズに限らず、音楽は個人的な好みの問題であり、ある人にとっては感動的な演奏でも、ある人には全く響かないという事がしばしばある。確かに音楽の好みというものは、人によって様々ではあるのだろう。
 だがその一方では、確かに全てが個人的な好悪だけで判断されるべきものだろうかとの疑問もある。いちがいに好みといっても、そこには聴き手それぞれの「耳のレベル」があり、多くの場合、そのレベルに対して無自覚のまま、単にその時の気分で判断しているにすぎないように映らないではない。そして、その音楽の本質を聴き取る事が出来ない時、人はその音楽に「嫌い」というレッテルを貼るのではないか。つまり自分の耳や感性のレベルを省みることなく、「自分の都合」に合わせて音楽を聴く、のみならず「良い・悪い」を判断する、それを表すために「音楽は個人的な好み」という便利なフレーズが使われているように思える。
 音楽には、明らかにレベルの違いがある。「格」と言い換えても良いだろう。そして聴き手の耳にもレベルは差は歴然としてある。よって音楽に対する好悪とは、音楽そのものを度外視した、まさに個人的な耳のレベルの程度を反映させたものでしかないとも言える。それは、いうまでもなく音楽に対する評価ではなく、自分の耳に対する評価に他ならない。
 名盤が証明しているものは、「音楽は個人的な好み」ではないという厳然とした事実だろう。

ジャズとはどんな音楽?

ジャズってどんな音楽なんだろう?ちょっと気取っていて、大人の聴く音楽?なんだか難しそう!いや、今私達が聴いているロックやポップスのミュージシャン達も、ジャズマンから随分影響を受けているらしい。あのスティングだって、ジャズマンと共演しているんだ。へぇ、うちのおじいちゃんは昔ジャズを聴いていたって言うけれど、それって同じものなの・・・?
 ジャズに興味を持っている人は大勢いる。だけど、なんとなく取っ付き難いのは、ジャズの正体がよくつかめないからだ。そこで思い切って、ジャズはどういう音楽なのか?という疑問に最初に答えてしまおう。

「ジャズは、それぞれが個性的なミュージシャンたちの、“演奏”を聴く音楽である」
 なんだって、それじゃあんまり当たり前すぎるじゃないかって?確かに「演奏を聴く」なんて言われても、音楽ファンにとっては当然のように思えるけど、枝葉をはしょって突き詰めてしまえば、これはかなりジャズの本質に迫った鋭い答えだし、他のジャンルの音楽は、実は必ずしもこの言い方には収まり切らない要素を少しずつ含んでいる。例えば、ジャズと同じように熱心なファンに支えられているクラシック音楽は、バッハやベートーベン、モーツァルトといった昔の作曲家たちの作品を、カラヤンとかグールドといった現代の演奏家達の手によって再現されたものを聴くことが一般的なので、演奏を聴くことは、同時に作曲された作品を聴くことでもある。
 別の言い方をすれば、クラシック音楽の演奏は過去の作品の解釈、再現でもあり、ちょっと図式的な理解ではあるけれど、紙に書かれた楽譜を実際の音として人に聴かせる、目的のための手段、といった側面もある。つまりクラシック音楽では、どんなに個性的な演奏をしたとしても、「演奏者だけが音楽の主人公ではない」というところが、ジャズとは大きく異なっている。
 また常日頃お馴染のポップスや歌謡曲は、親しみやすい、あるいは心に染み渡るメロディの美しさが音楽の魅力になっていることが多く、お気に入りのミュージシャンが歌い、あるいは演奏する好みの楽曲を聴くというのが普通の楽しみ方だろう。特にTV時代のアイドル達は、単に歌の上手い下手ではなく、ダンスの振り付け、姿形、果ては食べ物の好みのような私生活までも含めた総合的な訴求力が求められ、ラジオしかメディアのなかった頃のように純粋な歌唱力だけで勝負できるという訳では無くなっているのが実情だろう。
 要約すれば、ポピュラー・ミュージックの世界では、演奏能力や歌唱力に加え、人々にアピールする曲想、歌詞の力が、とりわけ現代では、アーティストの人的魅力が備わっていなければ、ファンに対して通用しないところを思い出してもらいたい。
 それらに対してジャズは、多くの人たちが誤解しているように「曲」を聴かせることだけが演奏の目的ではない。またその演奏している曲目にしても、メロディがよく解らない(この部分を「アドリブ」という)ものを延々と吹きまくるばかりで、一体何をどう聴いていいやら見当も付かない、というのが一般の印象ではないだろうか。
 ところが、この何をやっているのかよく解らない「演奏」部分こそが、ジャズの本質とも言うべき肝であり、聴きどころなのだ。だから多くのジャズマン達は、いかに人と違ったやり方で、この「演奏」をカッコよく仕立て上げるかに、それこそ全身全霊を傾けているのである。
 実はジャズに親しもうと思って入り損なってしまう人たちの大半が、クラシック音楽や、ポピュラー音楽の常識をジャズにも当てはめてしまうところに問題がある。つまり、これは止むを得ない事とはいえ、どうしても入門者は「曲」や「メロディ」にこだわってしまうのだ。
 ジャズマンは「曲」を演奏しているのではなく、単に「演奏」を聴かせている。なんだか禅問答のようだけれど、ここは大切なところなのできちんと順を追って説明したい。
 勿論ジャズマンだって『枯葉』や『チュニジアの夜』といった曲を演奏するのだけれど、その時の解釈の仕方が、クラシックの演奏家やポピュラー・ミュージシャンとは大きく異なっているのだ。そしてこれこそが、ジャズと他の音楽ジャンルを区別する重要なポイントなのである。
 最初に書いた様に、クラシックの演奏家は、自分なりに他人とは違った個性を発揮すべく努力はするだろうが、もしその演奏が著しく作曲家の意図したであろう作品の本質からズレていると聴き手に判断されれば、それはやはりバツでしょう。例えば、バッハの荘厳な宗教曲を、いかに独創的であれ、派手に軽々しく演奏したとすれば、これは認められそうもない。
 またポピュラー・ミュージシャンは、自分の持ち味をアピールするにしても、同時に、ヒットした曲であればあるほどに、人々が求めるその曲のイメージを守ろうとするだろう。どちらにせよ、やはり「曲」は大切なのだ。
 ところが、である。優れたジャズマンの多くは、曲目自体は自分の個性的な演奏を聴かせるための手段、素材に過ぎないと考えている。彼らは作曲者の意図などには、さほど縛られていない。クラシック音楽では譜面に書かれた音符から、たった半音ズレただけでもそれは「間違い」なのだが、ジャズマンは平気で元の曲の音符の長さを変え、音程を外し、果ては全く違うメロディに組み替えて平然としている。
 ジャズの本質とまで言われる「アドリブ」には、いかに元の曲のメロディを変換するかというゲームのような要素があり、また、「フリー・ジャズ」の一部には音楽の常識であるメロディを破壊することを目的にしているような演奏すらある。
 では、一体、ジャズマンは「曲」を何の素材と考えているのだろう。
「演奏」である。
 個性的な演奏である。つまりジャズマンはそれぞれがとびきりの個性の持ち主であって、そのオリジナリティを証明するために、「自分だけの演奏」を心がけ、そのための素材として、様々な曲を利用するのだ。
 だからジャズを聴く時に、ポピュラー・ミュージックを聴く時の様に曲を聴こうとすると、おなじみのメロディはなかなか出てこないし、出てきても変に音がズレていたりと、どうにも落ち着きが悪くて、聴きどころがつかめず、最後は何が何だか解らなくなって、ジャズは難しい、ということになってしまいがちなのである。
 しかし、それはあなたの「ジャズの聴き方」が間違っている、というところに気がついてほしい。あなたは、最初から、ジャズマンが聴いてほしいと思っているものではないものを求めているから、裏切られた、解らないと思ってしまうのです。